中山 理 – 運命的な出会いを引き寄せるには

中山 理

麗澤大学特別教授・前学長

モラロジー道徳教育財団 特任教授

フィリピン、パーペチュアル・ヘルプ大学院名誉教授

 

 

●運命とは人が運んでくださるもの

 皆さんは「運命」と聞いてどのようなイメージをもちますか。「運命」という語には原義として「天が人間にくだす命令」という意味がありますが、事ほどさように、私たちの人生には、個人の思いや意志を超えて、幸福や不幸、喜びや悲しみをもたらす超越的な力が働いているのではないか、と感じるときがあります。

 読者の中にも、人と人の巡り会いに偶然以上の何かを感じた経験のある方がいらっしゃるのではないでしょうか。別の表現では「ご縁」ともいいますが、あの人との出会いが、その後の自分の人生を変えたとか、あの人の一言に救われ、今でも心の支えになっているとか、そのような出会いを経験したことはありませんか。

 運命の「運」は「はこぶ」とも読みます。命令を下すのは天でも、良縁を実際に「運んでくれる」のは私たちが出会う善良な人々です。私の場合、今の人生があるのは、天来のご縁により、これまでいろいろとご指導してくださった恩師のおかげであり、そのような師弟関係に巡り合えたことに心から感謝しています。

 

 

●三つのタイプの恩師

「恩師」とは、教えや指導を受けた先生のことですが、今までの人生を振り返ってみると、大きく分けて三つのタイプがあったように思えます。もちろん、三つのタイプといっても、はっきりと線引きができるわけではなく、当然、重なり合う部分もあります。

 また、人の出会いがもたらす影響の度合いは、出会う回数や一緒にいる時間の長さのような量的なものではなく、「感応道交かんのうどうこう(教える者と教えられる者の気持ちが通じ合うこと)」というように、質的なもので決まるようです。中には「天はこの人を通して私に天意を伝えようとしている」と思えるくらい、心に聖なる戦慄せんりつを覚えるような、宗教的にまで美しい出会いもあります。

 そこで、恩師のタイプに話を戻しますと、第一のタイプは「知識の師」で、いろいろな知識を授けてくださる先生です。一般の学校や塾にはこのタイプの先生が多いようです。第二のタイプは「学問の師」で、学問をするとはどういうことか、その方法や態度、学びの作法などを教えてくださる先生です。そして、最後の第三のタイプは「人生の師」で、人はどう生きるべきか、人間の価値とは何か、人生の意味は何かなど、学校の教科書には出てこないことを教えてくださる先生です。このうち、AI(人工知能)が代替だいたいしうるかもしれない「知識の師」については別の機会にゆずるとして、より人間的な「学問の師」と「人生の師」についてお話ししたいと思います。

 

 

●「学問の師」が教えてくれた
 学ぶことの楽しみ

 私にとっての「学問の師」といえば、ともに上智じょうち大学名誉教授であった故・渡部昇一わたなべしょういち先生と故・ピーター・ミルワード先生でした。〝知の巨人〟と呼ばれた渡部先生とは、個人的にいろいろな学問的対話を通して多くのことを学ばせていただきました。

 私が麗澤れいたく大学の学長に就任したときのことです。先生は直筆の短冊「そうにして学べばすなわち老いておとろえず※1」(佐藤一斎著『言志晩録』)をプレゼントしてくださり、それが今でも座右の銘になっています。その短冊を見るたびに、「学長になって学びをおこたると、威張いばることだけ覚えて、退職してから知的活動がとどこおるから、生涯学び続ける覚悟をもちなさい」という先生のアドバイスが脳裏によみがえります。

 渡部先生との具体的な対話の内容については、『読書こそが人生をひらく』『人間力を伸ばす珠玉の言葉』『荘子そうじに学ぶ明鏡止水めいきょうしすいのこころ』『運命を開く易経えききょうの知恵』(すべてモラロジー道徳教育財団)という四書を上梓していますので、ご高覧いただければと思います。

 また、イエズス会の司祭しさいでもあったミルワード先生からは、シェークスピア文学とキリスト教思想を教えていただきました。しかしそれ以上に、多作であった先生の英語の著作を三十冊ほど翻訳させていただけたことが、何より貴重な学びの経験となっています。その仕事のおかげで、上智大学のキャンパス内にあるSJハウス(イエズス会修道院)の先生の個室に入ることを許され、大学院の講義以外でもいろいろな英語談義を楽しむことができたからです。

 

 

●「人生の師」から学んだ
 人類の教師との対話の大切さ

 私が「人生の師」と思える先生に出会ったのは麗澤大学でした。四年間の学生生活を通して、多くの先生からご指導を受けたのですが、その中で家族の一員のように温かく接してくださった恩師が故・大塚真三おおつかしんぞう先生でした。大塚先生との出会いは大学の「道徳科学」という授業で、麗澤大学の創立者・廣池千九郎ひろいけちくろう先生の研究した〝モラロジー〟について学ぶ貴重な機会を得たときでした。

 教室の最前列に座っていたからでしょうか、先生から「講義ノートを作り、左側のページに講義内容をまとめ、右側のページには感想や自分で調べたことをレポートし、毎週一回、自宅に届けるように」とのお声がかかったのです。それがきっかけで先生のご自宅を頻繁に訪ねるようになり、庭掃除を一緒にしたり、奥様の手料理をごちそうになりながら学生生活のアドバイスをいただいたり、先生のご著書の校正のお手伝いをしたりと、それまで味わったことがないような師弟同行の体験をしたのでした。

 大塚先生からも「いわく、りておこなえば、うらみ多し ※2」(『論語ろんご里仁りじん篇)という人生訓の短冊を一葉いただきました。

 先生の講義で学んだのは、人類の教師と対話することの大切さでした。それは、廣池先生が大切にした「けいもって経を※3」という言葉のように、原典にチャレンジし、自分の頭でものを考える習慣を身につけることでした。

 例えば、『聖書せいしょ』を読めばイエス・キリストと、『論語』を読めば孔子と、プラトンの『ソクラテスの弁明』を読めばソクラテスと、『阿含経あごんきょう※4』を読めば仏陀ブッダと、『古事記こじき』を読めば日本神話の神々(特にアマテラスオオミカミ)と※5、時空を超えた対話が楽しめるのです。

 

 

●「学び」は人と人との
 交わりの中にある

 いろいろな恩師から共通して教わったことは、人格的な〝感化力〟の重要性でした。できれば、私たちも恩師をロールモデルにして、他者に良き影響を与えるような人生を歩みたいものです。しかし、だからといって、誰もが学校の教師である必要はありません。というのも、私が恩師から影響を最も強く受けたのは、教室の中でというよりも、人と人とが普段着で接する日常生活の中だったからです。

 もちろん、私たちには個性があり、学問、知識、経験、社会的環境、DNAなど、百人百様ですので、その人なりの交流やコミュニケーションの仕方があってよいと思います。例えば、学問や知識があるなら、その強みを生かして、相手の理性に知的な刺激を与えられますし、慈悲や至誠しせいの心をみがいているならば、その温情で相手の感情をなごませることができるでしょう。また道徳的な実体験を大切にするならば、その実行談を通して、相手の良心に訴えることもできるはずです。

 前述したように、感応道交の人間関係が生まれるのは、その根本に相互的な思いやりの精神があるからです。知識や感情だけでなく、お互いを思いやる心で全人格的なコミュニケーションをとることによって人格が磨かれ、ウェルビーイング※6が高められます。

 皆さんが「運」を運んでくださる人々と巡り会えることを心からお祈りいたします。

 


※1
「壮年のときに学んでおけば、老年になっても気力が衰えることはない」という意味
※2
「自分の利益中心で行動すると人から怨まれることが多い」という孔子の言葉
※3
原文は「以経説経」。伝統的な中国の学問の精神を伝えた言葉
※4
阿含経:仏教最初期の経典
※5
 この中で最後の日本神話については、もう少し説明が必要かもしれません。というのも、日本では天地開闢以来の日本神話を「神代記」と呼び、歴史として考えてはいけないという不文律があるからです。
 しかし、だからといって、どれも史料的価値のないファンタジーだとして一蹴するのは、一見科学的なようで実は史実から遠ざかることになります。なぜなら、記紀は国を挙げて連綿と伝えてきたエピソードの集大成であり、それは日本の「正史」をつくるために不可欠な史料だったからです。
 実際、古代の日本では、古事や神話を言葉で語り子孫に伝えてゆく専門職があったことが記録に残っています。いわゆる「語部かたりべ」という世襲の役職ですが、日本の語部は、たとえばギリシア神話を語り伝えた古代ギリシアの吟遊詩人とはその性質が大きく異なります。その一番の違いは、日本の語部はれっきとした官職であり、朝廷の一組織として日本国の古事を公の儀式を通して正確に伝える役割を担っていたということです。
 それも単なる公務員ではなく、歴代天皇の即位の時には、「践祚せんそ」に伴って催される大嘗祭だいじょうさいで、わが国の建国の理念を語り伝えるという重要な役割を果たしていたのです。つまり、そのテキストともいえる日本神話はただの「おとぎ話」ではなく、日本の悠久の歴史の中に深く組み込まれた歴史的リアリティの宝庫といえるでしょう。そして大嘗祭という儀式を通して、皇室の祖先神であるアマテラスの慈悲寛大自己反省の精神は、神武天皇をはじめとする歴代天皇に継承されてきたのです。

※6
ウェルビーイング:身体的、精神的、社会的に良好な状態にあること

 

(『れいろう』令和5年11月号に加筆)