髙橋史朗137 – SDGsとAIに関する根本的考察 ――「SDGs/AI批判序説」考

髙橋史朗

モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所 教授

麗澤大学 特別教授

 

 

 隔月誌『表現クライテリオン』3月号は、「SDGs/AI批判序説」という特集を組み、養老孟司「SDGsとAIを語る」、池田清彦「SDGsという陥穽――大合唱の裏に何があるのか」、葛城奈海「SDGsよりも『常若』を」、辻田真佐憲「スローガンの裏に潜む『ケガレの動員』に警戒せよ」、仲正昌樹「AIとの融合は『人間』を幸せにするか」、川端祐一郎「AIの『知能観』、掛谷英紀「ポストモダン左派はなぜウソをつくのか」というタイトルの論文を掲載し、同5月号でも「SDGs批判序説」と題する長谷川三千子氏の特別寄稿を掲載している。

 哲学者で舌鋒鋭い長谷川三千子氏は、まず「批判序説」とは、単に批判の口火を切ってみたということではなく、批判しにくさそのものを解剖し、その底に潜んでいる根本的な問題を浮かび上がらせる役割を担っていると定義した上で、盛り沢山のSDGsは小学生の「学習ドリル」にそっくりの形をしていると皮肉り、SDGsの出発点の事情を振り返りつつ、次のような本質的な問題提起をしている。長い引用となるが、重要な指摘なので冒頭に紹介したい。

 

 

●長谷川三千子埼玉大学名誉教授の本質的な問題提起

<SDGsが国連サミットの加盟国全会一致で採択されたのは2015年9月のことですが、この略語のもとをなすSustainable Developmentといふ言葉が出現したのは、1987年のブルントラント委員会の報告書においてでした。…しかし、皆が大合唱してゐるこの標語のうちをのぞき込んでみると、実はそこには、途方もない難題がひそんでゐるのです。…
 本来developmentとは、発達、発展、進展といつた意味の言葉です。そして、その発展の動きが外に向かふとき、「開発」といふ訳があてはまる意味が出てくるのです。…ミクロ、マクロのdevelopmentは、すべて地球上の資源に支へられて可能となつてゐる。Sustainableといふ語が表はしてゐるのがまさにその意味であって,sustainといふ動詞は、重いものをじつとこらへて支へつづける、といふ意味を含んでゐます。つまり、ここでのsustainableは、地球の恵みがさうした全生物の発達や進化を支へつづけてくれてゐる、といふことを指してゐる。ですから、この標語は、本来すべての生物が唱へるべきものなのだ、とも言へるのです。…人間といふ生物は、これを標語として唱へざるを得ない特殊な生物だ、といふ事情があるのです。…
 ところが人間は、身体そのものの発達、進化だけでなく、外にむけての進展を行ひます。「開発」と訳されるのがそれであつて、家を建てるとか道路や橋を作るとか、自分の外にさまざまのものを作り始めます。つまり、いはゆる「自分の身の丈に合つた」といふ制限の枠がとりはらはれる訳であつて、さうなると、この「開発」の動きはどこまでも大規模になりうる。またどんどん加速してゆくことにもなります。そして、そこにはじめて地球がそれを支へきれるかどうかの心配が生じてくることになるのです。
 ただし、人間の社会のうちには、それを「身の丈に合つた」ものへと押しとどめるはたらきをもつた機構もそなはってゐる(あるいは「そなはつてゐた」と言ふべきかもしれません)。各民族や地域の「文化」や「慣習」といつたものがされであつて、「本能の壊れた動物」と評されたりもする人間が、曲がりなりにも生きものとして、「開発」へと暴走せずに生きてゆけたのは、そのおかげだつたのです。
 ところが、15世紀、16世紀におこつた、いはゆる近代資本主義の大波は、この文化や慣習といつた防御装置を一気になぎ倒してしまひました。そして、これによつて「開発」の進展はまつたくブレーキの効かないものとなり、あとはハンドルをどう切るかといふ小手先の技でしのぐ他はなくなつた一一あのブルントラント委員会の報告書は、まさにさうした事態に対応した苦肉の策であつたとも言へます。そして、SDGsはと言へば、ただもうそこから必死に目をそむけるために、思ひつくかぎりの並べたてて叫んでゐる、といつたありさまです。
 そして、その事態の本質から目をそむけてゐるために、たとへば目標5の「ジェンダー平等を実現しよう」などといふトンチンカンが唱へられたりしています。すでに本能の壊れかけた人類が文化的性差を手放したりすれば、(さしあたっては人口増加を防いで飢餓の解消に役立つとしても)やがては人類そのものが「持続不可能」となること必至です。その意味では、3月号の葛城奈海さんの「常若」の提唱は、まさしく本来のSDGsの基本理念と言ふべきものでせう。日本にはまだ、海山と人とをむすぶ文化が残ってゐる。それらを甦らせることは、国連がやり損ねた本当のsustainable developmentの道を切りひらくことになるはずなのです>

 

 

●養老孟司・池田清彦・掛谷英紀の論点

 長谷川三千子著『正義の喪失』(PHP文庫)第5章「ボーダレス・エコノミー批判」に、近代資本主義の出発点においていかなる破壊が起こったかについて詳述しているが、「もっともっと」のあくなき人間中心主義が今日の環境破壊をもたらしたことは明らかである。

 養老孟司は池田清彦『SDGsの大嘘』(宝島社新書)を引用しつつ、国連が提示しているSDGsの17の目標は「目標とすることについて、だれも異論を唱えられないお題目だけれど、達成不可能なものばかりで、仮に達成しても地球環境にはほとんど影響がない」と断じ、「SDGs推進が宗教味を帯びているのは、ポストモダン左派が自ら神にとって代わろうとしているからである」と掛谷英紀筑波大学准教授は批判している。

 池田清彦山梨大・早大名誉教授は「SustainableとDevelopmentは矛盾する。持続可能とはほぼ定常状態を取り続けることであるから、開発して生態系を改変すれば、持続可能性は失われてしまう。Developmentを続ける限りGoal(目標)には行きつかない。…17の目標は個々に見る限り、それ自体は文句が付けようがないが、あちらを立てればこちらは立たず、といったよく考えれば矛盾する項目も多く、SDGsを金儲けの手段として利用したい人たちは、自分たちに最も都合がいい目標をスローガンに掲げて、たとえて言えば、水戸黄門の御印籠のように、反対意見を有無を言わせず黙らせるために使っているように見受けられる」と述べ、地球温暖化を抑制すると称して行っている政策や活動を次のように批判している。

<科学的な裏付けに乏しい運動である。この運動には、世界的な規模で、国連、多くの政府、マスコミがコミットしているので、信じている人も多く、その結果、莫大な無駄金(多くは税金)が使われ、一方でそれに群がっている人たちも沢山いるという、現代社会で一番厄介な宿痾である。「地球温暖化は事実であり、その主たる原因は人為的なCO²の排出である」という法螺話(ホラー話)…CO²が温暖化効果ガスであることは事実だが、だからと言って、ここ150年の1.09度の気温上昇の主因が人為的なCO²の排出によるものだというのは実証不可能な仮説にすぎない。…現在よりもCO²濃度が何倍も高かった4・5億年前や3億年前にも気温が低かった時期があり、CO²濃度と気温は必ずしも連動しない。そういう科学的なエビデンスを無視して、CO²削減政策に血眼になって邁進するのは異常と言う他はない。…現在の脱炭素政策は全く気候変動には寄与しないので、人々は安心してこれを梃子に金儲けに邁進できるのである>

 

 

●『教育AIが変える21世紀の学び』が提示する「指導と学習の新たなかたち」

 ところで、「構造改革」のスローガンによって、平成の失われた30年を引き寄せてしまった日本人は、グローバリズムや新自由主義のスローガンに代わって、SDGs、AIによる人類の超越(シンギュラリティ=技術的特異点)、DX(デジタルトランスフォーメーション)などの夢想的なスローガンに寄りかかりつつある。

 レイ・カーツワイル『シンギュラリティは近い』は、「これから数十年のうちに、情報テクノロジー(IT)が、人間の知識や技量をすべて包含し、ついには、人間の脳に備わったパターン認識力や、問題解決能力や、感情や道徳に関わる知能すらも取り込むようになる」と述べ、落合陽一『超AI時代の生存戦略』は、「計算機以後の人間性では、『個人の個人らしさ』や『同一性』という問題は計算機進歩によって置き換わっていく」と説いているが、「便利」によって人間の心がどれだけ貧しくなったか、に思いを馳せる必要がある。

 我が国では学習指導要領の改訂によって、「社会に開かれた教育課程」や「チーム学校」というコンセプトから学校と学校外が協働的な体制を構築することを通しての、公教育の新しい方向性が模索されている。

 教育現場で使われている人工知能の詳しい説明と未来の学校を考えるヒントが書かれている共著『教育AIが変える21世紀の学び一指導と学習の新たなかたち』(北大路書房)には、次のような多くの賛辞が寄せられており、必読の書である。

・人工知能は既存の価値を打ち壊す存在だが、教育がその最前線となりつつあることを理解している人はほとんどいない(OECD教育・スキル局副局長)。
・教育の未来はAIの影響により、十中八九変わるだろう。学習科学に根差して、AIが持つ利益とリスクの両方に対し批判的な見解を示している(ジム・フラナガン)。
・政策立案者や教育者が人工知能について深く理解し、そこに何があるのかを教えてくれる。初の国際的、包括的な試みである(ユネスコ教育政策部長)
・21世紀の教育の目標や方法にAIがどのような影響を与えるかを理解するためのベンチマークである(ヘンリー・カウツ)。

 

 

●人工知能と教育人材の養成

 社会のデジタル化とそこからもたらされる社会変容は、決して産業界にのみとどまるものではなく、多くの分野で社会と生活の全てを変えていく可能性を持っている。この意味で、個人と社会のウェルビーイングの実現に役割を担う教育という営みには、変革の姿が具体化すればするほど、目的と方法の両面から大きな影響を与えることにならざるを得ない。

 令和元年に始まったコロナの感染拡大時に見られたように、ICT技術の社会的偏在という現状が、社会やとりわけ教育において「格差社会」の象徴として現れたことは記憶に新しい。感染拡大防止のための「学校休業」という」事態は、「学び」を支えるパソコン・タブレット等の学習機器と通信環境という優劣の格差が「学び」の機会の提供と質の担保の格差を生み出した。

 ICT技術が個人と社会のウェルビーイングを阻害する事態が生じかねない状況が生まれている。2015年よりOECDが「Education2030」という、これからの教育に求められる内容と方法を、広範な国際協力の中で検討する取り組みを進めている。

 「フェーズ1」の取りまとめとして「ラーニングコンパス2030」のキーワードとなるコンピテンシー・エージェンシーという概念と全体のビジョンの提案を行い、「フェーズ2」として取り組もうとするのは、そうしたビジョンに基づきつつ教育における革新を起こすことのできる教育者の養成や研修である。

 堀内進之介『人工知能時代を<善く生きる>技術』(集英社)によれば、そもそもAIに対する楽観論や待望論、逆に脅威論を生み出すのは、人間と技術を截然と区別し、技術は「人間らしさ」を体現しないと仮定するから生じているという。そして、理性や意志にではなく、「緩やかに促される環境」の中にこそ、期待すべき時代がAIによってもたらされるのではないかと論じている。

 AIが個人に働きかけてくることから新しい環境が創り出され、新しい個人の誕生と、新しい価値を含む行為選択が顕現しているというのである。この点を踏まえて、松田恵示教授は次のようにまとめている。

<AIEDによってもたらされる学習者の「学び」とは、学習者自身の道具に補助された高機能化による量の拡大ではなく、環境の拡張による「自身」の変化であり、自身の中に「他者」を見出し、そしてその他者と「出会い」、より良い方向へと変化する営みを自ら生み出していくことであろう。この意味では、個別最適化された学習とは、ドリルの個別化によって自身の内部を「効率よく鍛える」ことが可能になったというのではなく、自身を取り巻く環境との相互作用の結果として、本書でも触れられたような学習における「熟練」と「転移」がまさに実践的に経験されたという事態ではないだろうか。…教育が前提としてきたある種のパラダイムへの問い直しでもある>

 

 

●問われる「AIEDの倫理」とは何か?

 最後に、AIEDの研究者たちは道徳的な基盤を十分に確立しないまま活動を行っているが、AIEDの倫理に関する問いには、少なくとも以下のものが含まれる。

・倫理的に容認可能なAIEDの基準は何か?
・生徒の目標、興味、感情が一時的なものであることは、AIEDの倫理にどのように影響するか?
・学校、生徒、教師は、大規模なデータセットにおける自分たちの表現のされ方に、どう拒否したり、異議を唱えたりすればよいのか?
・AIEDの多層ネットワークを使った深遠な決定がどのようになされているかを簡単に調べることができないことの倫理的意味は何か?

 そこで、著者は次のように結論付けている。

<最も重要なことは、AIEDの倫理の問題は完全に解決されなければならないということである。…私たち(教師、政策決定者、学習科学者)は、データの収集が提起する問題を理解する必要がある。…私たちはAIEDの倫理だけでなく、教育の倫理、指導と学習の倫理(特定の指導法アプローチ、カリキュラムの選択、平均値の重視、資金の分配、その他多くのことに関する倫理)についても十分に理解する必要がある>

 

(令和5年4月17日)

 

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