川上和久 – 武士の教育に対する思い

川上和久

麗澤大学教授

 

足利学校:現存する日本最古の学校の遺跡(栃木県)

 

●江戸時代の人材養成

 前回に続き、新渡戸稲造が『武士道』第10章で論じた武士の教育に関連し、武士の教育がいかなるものだったかについて論じたい。近代的な学校教育が開始される前にも、子弟を一カ所に集めて教育する形態はあった。

 その嚆矢は、すでに15世紀には存在していた。「足利学校」である。足利学校は現在の栃木県足利市に設けられていた学校施設だが、その創設については諸説あり、平安時代初期に小野篁が創立したという説から、鎌倉時代初期に足利義兼が創建したという説もあり、室町時代初期に上杉憲実が創設したという説もある。定説はないが、現存する資料では、永享年間に、関東管領の上杉憲実が、鎌倉円覚寺の大家快元和尚を招いて校長とし、1439年(永享11年)に、宋の経典を学校に寄進した記録が残っている。「足利学校」が日本最古の学校とされている。

 学校では易学を中心に漢籍類、兵法書などが講ぜられ、江戸時代にも徳川氏の保護を得て継続され、1872年(明治5年)まで存続している。

 しかし、「武士の教育」が、武家の中での家庭教育ではなく、学校の形で充実していくのは、江戸期の「藩校」の登場による。

 江戸時代になると、諸藩によって設立された藩士の子弟を対象とする教育機関である藩校が数多く設立された。寛政期(1789-1801)以降になると、各藩が藩政改革のために人材養成に力を入れるようになったことで、多くの有力大名が藩校を設けるようになった。

 1867年(慶応3年)までに、少なくとも219藩で開設されていた。入学年齢はおおむね10歳以上、一部の藩では庶民の入学も認めていた昌平黌学問所のように、素読や講義など、儒学を中心に兵法なども教えられていた。

 

 

●池田光政による統治の基本理念

 もっとも古い藩校といわれているのが、岡山藩の花畠教場である。花畠教場は、備前国岡山藩初代藩主の池田光政が、1641年(寛永18年)に、岡山城下の花畠に建て、儒学者の熊沢蕃山らを招き、家臣に陽明学を講じた。

 池田光政は、1609年(慶長14年)に、池田利隆の子として生まれたが、姫路藩主である父・利隆が、岡山城代を兼ねていたこともあり、光政は岡山で生まれている。

 関ヶ原の戦いの9年後に生まれた、いわゆる「戦後世代」ではあったが、光政には豪胆なところがあった逸話が残っている。

 光政は5歳の時、初めて徳川家康に謁見し、褒美に脇差を与えられたが、光政は拝領した脇差を抜き、それをじっと見ながら「これは本物じゃ」と言ったそうだ。家康の前でも少しも臆しない態度を見て、家康は「あの眼光の凄まじさは、ただ者ではない」と語ったという。

 8歳の時、父・利隆が死去して家督相続により姫路藩主となったが、翌年に江戸幕府から幼少であることを理由に鳥取藩に転封を命じられている。そして24歳の時、従弟・池田光仲との交代で生誕の地の岡山城に戻り、31万5000石を治めることになった。

 鳥取から岡山に移る前から、光政は儒学に傾倒しており、熊沢蕃山の影響で儒学の中でも陽明学を信奉し、後に朱子学に転じるものの、陽明学の根本原理である「知行合一」が光政の統治の根本理念となっていった。

 

 

●時代を超えて引き継がれていく「思い」

 光政の「知行合一」の思いは、さまざまな言葉に残されている。たとえば、

「家臣(武士)たちは我れのものであるが、百姓は上様(将軍様)からの預かりものである。粗末にしてはならぬ。もし百姓が安んじなかったら上様に対して不忠者となる」
「仮に藩の財政が苦しくなっても、家臣たちへの給与は減ずるとも、百姓の納める年貢を上げることはしない」
「災害や飢饉のときなどに、百姓がたまたま病気にかかって死ぬことは仕方ないとしても、食べ物がなく、飢え死にするなどのことがあってはならぬ。ぜひ相応の手当てをして飢え人を出すな。もし飢え死にする者が出たら、係りの役人(武士)を処罰する」

と、今風の言い方をすれば、「領民ファースト」の統治を徹底しようとした藩主であった。

 だからこそ、このような自分の「知行合一」の統治の考え方を藩士にも徹底させるべく、他藩に先駆けて藩校を設けたのであろう。

 花畠教場の校則、校訓は、「花園会約」と呼ばれ、教場に掲げられ、熊沢蕃山が作ったものである。

 その内容は、毎朝儒学の経典を読むことや、食後には武芸の鍛錬を行うことなどが定められており、「朋友の交わり」とした項目では、「相手の過ちをただし、善行を勧めること。相手の過ちを見て規すことなく、また善行を知って勧めないことは、お互いに切磋琢磨することにならない」など、儒学や武芸のみならず、花畠教場での人間関係の在り方なども含めて、細かく定められている。

 花畠教場は、その後、岡山藩学校となり、後の岡山大学につながっていくが、江戸の藩校と明治期以降の近代国家における学校とは教育内容に断絶があるとはいえ、設立した藩主の、「武士の教育に対する思い」は、時代を超えて引き継がれていくものであるべきだろう。藩校における武士の教育については、花畠教場のみならず、注目すべきものがいくつもあり、また順を追って取り上げていきたい。

 

参考文献
前澤輝政 『足利学校 その起源と変遷』 毎日新聞社
藁科満治 『藩校に学ぶ』 日本評論社

 

(令和5年10月3日)