川上和久 – 戦うための技法のみならず
川上和久
麗澤大学教授
●教育課程に組み込まれた「品性」
武士が「戦う」ことを宿命づけられている以上、武士の教育の中に、「武芸百般」と言われる「戦うための技術」が含まれるのは当然のことであり、新渡戸稲造は『武士道』の第10章「武士の教育および訓練」の中で、「武士教育の課程が、剣術、弓術、柔術、馬術、槍術、兵法、書道、道徳、文学、歴史などから成り立っているのを見ても、べつに驚くにあたらない」と、主要な教育課程に武術をあげている。
戦うための技法である「武芸十八般」は、弓術・馬術・槍術・剣術・水泳術・抜刀術・短刀術・十手術・銑鋧術(=手裏剣術)・含針術・長刀(なぎなた)術・砲術・捕手(とって)術・柔術・棒術・鎖鎌(くさりがま)術・錑(もじり)術・隠(しのび)術の十八の術を指すのが一般的だ。
この中でやや説明を要するものは、まず、含針術だろうか。含針術とは、口の中に針を含ませて、敵の目潰し等に使われる技術。 実際に針を口の中に含むのは現実的ではないが、現実の武術としては、「目潰し」の中の一技法と言われている。
錑(もじり)とは、長柄の先に多くの鉄叉を上下につけた道具で、江戸時代に罪人を捕える武器として用いられたものである。
このような「武芸十八般」については、新渡戸は自分自身の専門外であるということもあってか、あるいは、言葉で説明できることではないことであることが分かっていたからなのか、ほとんど内容に踏み込んでいない。
新渡戸は、
「知識は第二義的なもの」として考えられており、「智、仁、勇は、武士道を支える三つの柱」であり、知識を得るというよりも、武士としての品性を確立する目的で教育がなされた、
と説明している。
このような「武士の品性」を重んずる気風は、もちろん、武士の発生とともに培われていたが、それが、教育課程に組み込まれるようになるには、太平の世が訪れることが前提となった。
戦国大名の中でも、新しい儒学である朱子学を研究する学問僧を保護する大名はいたが、儒学において、人間の救済はこの現実世界において行われるべきであり、多くの人々を救済するのは現世で政治を担当する統治者の役割であること、それが天から与えられた使命である、という考え方は、領国経営を担う封建官僚としての武士という、新たな役割が江戸時代に入って付け加えられることで、武士教育に取り入れられていった。
武士教育に大きな役割を果たした江戸時代初期の儒学者の代表は林羅山であろう。
●武士に必須とされた教養
林羅山は1583年(天正11年)生まれ、臨済宗建仁寺に入って、儒学と仏教を学んだが、儒学の研究に傾注し、藤原惺窩の推薦で1607年に徳川幕府に召し抱えられ、以後、家康、秀忠、家光、家綱の4代の将軍に仕え、将軍に侍講として儒書や史書を講じた。
徳川幕府の中で、「将軍の教育」を担った重鎮であったが、儀式・典礼の調査や法度の制定、古書・古記録の採集・校訂、外交文書の起草にもあたっている。
武士の教育という点で大きな事績としては、1630年(寛永7年)に、三代将軍家光から江戸上野忍ヶ岡に土地を与えられ、ここに私塾・文庫と孔子廟を建て、それらが神田の昌平坂に移って幕府直轄の昌平坂学問所となり、林家の家学・朱子学が幕府の正学となる基を開いたことがあげられよう。
林羅山によって、徳川幕府における武士の教育に、朱子学が据えられたのである。羅山以降、朱子学の思想と徳川封建政治の理念との間に密接な関連が生まれ、羅山の子孫は代々大学頭として幕府の文教を担い、朱子学が幕藩体制を支持する官学となっていったのである。
18世紀に行われた「寛政の改革」(1787~1793)によって、林家の私塾は幕府の官立学校となった。
この昌平坂学問所では、朱子学を正学として、幕臣・藩士などの教育を統制した。また旗本の子弟のほか,陪臣・郷士・浪人の入学も許し、諸藩から多くの人材が集った。一般人にも仰高門での日講聴聞を奨励した。通学のほかに寄宿制度もあったという。
ここでは、定期的に学力試験が行われていた。「素読吟味」は15歳未満の年少者あるいは17歳から19歳までの子弟を対象とする試験であり、毎年10月、担当の目付や大学頭、学問所の教授が列席する試験場で子どもたちは四書五経の指定された箇所を高らかに音読した。そこからさらに、「学問吟味」も上級試験として行われていた。
「学問吟味」は「予備試験」と「本試験」に分かれ、「予備試験」で四書五経や小学の試験を行い、合格者が「本試験」に進み、「経義科」「歴史科」「文章科」の試験を受けた。試験は数日間にわたり、成績優秀者には褒美が与えられた。
新渡戸は、武士の教育になぜ書道が重んじられたのかについても、
「武士が、能書良筆を重んじた理由は、わが国の表現文学がもともと絵画的な性質をもち、美術的な価値があるためと、筆蹟は人の性格をあらわすものだと認められていたからである」
と解説を加えている。
日本では飛鳥時代(6世紀ごろ~710年)のころに筆、墨、紙の作り方などと共に中国より伝えられてから書が本格的に始まり、当時、日本の指導者だった貴族や武士には不可欠な教養とされた頃からの、必須の教養に位置付けられる。
単に戦うための技法だけでなく、書道や道徳、文学などの教養が備わってこその「武士」であるという考え方のもと、江戸時代に至り、江戸幕府だけでなく、各藩で武士教育が工夫されるようになっていったのである。
(令和5年7月13日)