中山 理 -「もっと欲しい」をやめれば、もっと美しい景色が見える

中山 理

麗澤大学特別教授・前学長

モラロジー道徳教育財団 特任教授

フィリピン、パーペチュアル・ヘルプ大学院名誉教授

 

 

●欲求が赴くままに

「飽食の時代」といわれて久しいですが、今ではこの言葉さえ陳腐に聞こえるほど、グルメ情報があふれています。しかし、今から六十年ほど前、私が子供だった頃は、ファストフード店やファミリーレストランなどなく、これらの外食産業が出現したのは一九七〇年代でした。それ以降、日本人の食生活は西洋風にがらりと変わり、エンターテインメントの世界では料理マンガや料理対決番組が大ヒットし、日本のグルメブームに火をつけました。現在では、話題のスイーツやグルメ情報がテレビで放送されない日はないのではないでしょうか。

 しかし、気をつけなくてはならないのは、これだけ毎日、グルメ情報の中に身を浸していると、私たちのグルメ欲求も絶えず必要以上に刺激され続けているということです。たとえ意識的に注目していなくとも、知覚できないほどの速さや音量でグルメ情報が繰り返し挿入されれば、いつの間にか視聴者の潜在意識に影響を与え、購買意欲をかき立てる効果があるそうです。これは「サブリミナル効果」といわれていますが、今やSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)などのさまざまな媒体を通して、ありとあらゆる情報がまるで洪水のように私たちの日常生活に流れ込んできます。

 とは言いながらも、実は私はグルメ志向で、子供時代から大の甘党です。甘いもの好きは高齢になっても変わらず、以前は夕食後に必ず食べるデザートが楽しみでした。「私は大学教授で頭を使う職業だから、脳の活動に必要な糖分は、絶えず補充すべき栄養素だ」と勝手に思い込んでいました。

 ところが、ある日突然、どれだけ水分を取っても喉が渇き、食後に猛烈な睡魔に襲われ、体にのしかかるような疲労感がまったく抜けなくなるなど、体調不良が続くようになったのです。早速、人間ドックで検査したところ、糖尿病の初期症状が検出され、このまま放置すると深刻な状態になりかねないと注意を受けました。自分の利己的な欲求の赴くままに、食欲を満たしてきた結果でした。

 そのとき脳裏に浮かんだのが、麗澤大学の創立者・廣池千九郎先生の新版『道徳科学の論文』(モラロジー道徳教育財団)の一節でした。その中で廣池先生は、“人間が生存しようとするための本能”と“利己的な本能”の違いについて、食欲を例に分かりやすく説明しています。それは、「一日に肉三斤を食べれば生きていける人が、それだけを食べるのは害がないけれど、もしその人が肉四斤をむさぼり食べれば、その剰余の一斤は利己的本能の現れで、その人の健康を害することになる」という内容です。

 以前は、人間が生存しようとするための本能と利己的な本能の違いは、肉一片という微量な差でしかないのかと軽く考えていたのですが、実はその小さく見えがちな心づかいの差が私たちの生活の質を大きく変え、見える景色もがらりと変えることに、そのとき気づいたのです。

 そこでまず私は、今までの利己的だった食生活を反省し、それを改善しようと一大決心をしました。具体的には、甘い物は今後一切食べないと決め、「スイーツ断捨離宣言」をしたのです。甘い物には依存性があるので、それを断ち切るには強い精神力が必要でしたが、それも最初のうちだけでした。いったん断捨離が習慣化できれば、初期の渇望感をはるかにしのぐ、心地よい変化を体に感じることができたからです。

 それに対し、利己的本能の赴くままに満足感を得ようとすると、一時的に快感を味わえますが、欲には限りがないので、またすぐにそれ以上の快感を求めるようになります。そして、いつまで経っても健全な満足感が得られないのです。

 スイーツ断捨離と並行して、医師の指示の下、薬物治療や食事療法を行った結果、体重は十キロほど減り、体のだるさがなくなり、体の芯からエネルギーが湧いてくるような感を覚えるようになりました。現在では、異常だった数値は基準値内に収まり、主治医も驚くほど健康状態は改善しました。医師からは「一週間に一度ぐらいはスイーツデイがあってもいいですよ」とお墨付きをいただきましたが、できるだけ甘い物は控えるようにしています。

 というのも、服薬をやめている現在、ちょっと油断するとすぐに糖尿病予備軍の血糖値に戻ってしまうからです。そこで必要になってくるのが定期的な利己的本能のメンテナンスです。

 しかし、例えば、おもてなしなどで茶菓子が振る舞われた際には、その気持ちに感謝しながら、その甘味をじっくりと味わうことにしています。たまにいただくことによって、以前のような快楽的で依存的な食べ方ではなく、少量だからこそ、感謝の心でじっくりと深く味わう習慣が身についたように思えます。

 

 

●食欲は利己的本能なのか

 先ほど、甘い物には依存性があるとお伝えしましたが、なぜ人間が生存するために必要な食欲が利己的な本能と化してしまうのか、その心理的原因も知りたくなりました。

 一つの可能性としては、過剰なストレスや不安を紛らわすために、食欲が止まらなくなっている場合があるということです。この症状は「エモーショナルイーティング」(感情的摂食)と呼ばれ、「お腹がすいたから食べる」という自然な食欲とは違い、「疲労で体が甘い物を欲しがっているから食べる」、あるいは「ストレス発散のために空腹でないのに食べる」という行動です。

 その主な原因は、蓄積する不満、強い不安、孤独感、頑張りすぎなどがもたらす過剰なストレスが考えられます。ストレスがたまると体の中でストレスホルモンが分泌され、その影響で糖分、塩分、脂肪分などを多く含む食品を食べたくなるそうです。

 中でも、甘味には幸福感や癒しを感じさせる脳内神経伝達物質の分泌を促す働きがあるので、つい甘い物に手が出てしまいます。ここで注意すべきは、甘い物を食べて幸福感を感じる状態を頻繁に繰り返すと、この快感が脳にとってクセになるということです。快感を得るためには、糖質を取らなければいけないと脳が勘違いをするので、まるで麻薬のように甘い物に依存する状態に陥ってしまうのです。このときに空腹なのは胃袋ではなく頭、すなわち脳であるため、いくら食べても「もっと食べたい」という衝動が消えず、健康だけでなく、精神までも害することになりかねません。

 このような弊害を防ぐには、胃袋でなく、脳に健全な満腹感を与える必要があります。つまり、食欲を抑制しようとするのではなく「どのようにストレスに対処し、脳に健全な幸福感を与えるか」という、心の問題に目を向けることが大切なのです。

 では、どうすればよいのでしょうか。そのヒントを一つ挙げるとすれば、五月号でお伝えしたように、〝感謝の心〟が幸せな脳にとって一番のごちそうになるという科学的法則を忘れないことです。スイーツ断捨離で実感したことは、たとえ小さな試みでも、自分の想念がいろいろなものを引き寄せているという事実でした。自分の想念がグルメに支配されていれば、もっぱらグルメ情報に注意が向いてしまいます。そうではなく、自己の想念を自己の品性向上に向ければ、その想念に引き寄せられる情報も自己修養的なものに変わり、その結果、目に映る風景も変わるということです。

 

 

●“足るを知る”

 先日、妻と京都旅行で龍安寺を訪れました。以前なら、甘味処巡礼を楽しんだことでしょうが、私の目に留まったのは、有名な枯山水(※1)の石庭だけでなく、方丈の北側にある「知足ちそく蹲踞つくばい※2)」でした。知足とは“足るを知る”という意味で、人間の利己的な欲望を戒める言葉です。「吾唯足知われただたることをしる」という文字が刻まれた蹲踞は精確に作られた複製品ではありますが、「与えられたものに満足する気持ちをもちなさい」と私の心に語りかけてくる存在感がありました。

 それは食欲に限らず、利己的本能に支配されずに“足ることを知る人”は心が穏やかであり、我欲に支配され“足ることを知らない人”は心がいつも乱れているという、心の法則を教えてくれているようでした。

 

※1 枯山水:水を使わずに、石と砂で山や水の風景を表現する庭園
※2 蹲踞:心身を清めるために庭先に備えた手水鉢

 

(『れいろう』令和5年6月号より)