中山 理 – 精神文明と近代科学文明の融合―モラロジーの現代的意義

中山 理

麗澤大学特別教授・前学長

モラロジー道徳教育財団 特任教授

フィリピン、パーペチュアル・ヘルプ大学院名誉教授

 

 

●現代社会が抱える根本的問題

 現代社会を生きる私たちが抱える最大の問題の一つは、精神文明と科学文明との間に深刻な対立が生じていることではないでしょうか。というのも、世界の宗教的叡智と近代の科学的知性とがうまく融合できていないため、現代人の意識に深刻なマイナスの影響が及んでいるからです。その意味で、現代ほど両文明の間に「新たな架け橋」を架けることが求められている時代はありません。

 そのような精神文明と乖離した近代文明の欠陥を百年も前から見抜いていたのが、モラロジーという学問を創建した廣池千九郎先生です。廣池先生はこの問題を解決するために世界諸聖人の精神的価値を科学的に考察するという試みに挑戦したのでした。筆者の知る限り、当時もそして現在もそのような本格的研究がなされていないことからして、廣池先生のチャレンジはまさに前人未到の先駆的偉業と言えるのではないでしょうか。

 この問題についてさらに理解を深めるには、人類の文明史を全世界的な規模で眺める必要があるでしょう。麗澤大学・東京大学名誉教授で比較文明学の泰斗である伊東俊太郎先生は、これまで世界の文明は五つの人類共通の変革―「人類革命」「農業革命」「都市革命」「精神革命」「科学革命」―を経て、今日に至っていると指摘しています。どの革命も重要ですが、ここで特に注目すべきは「精神革命」と「科学革命」の不連続性の問題です。すなわち、現代でも精神文明と科学文明が対立したままの状態で放置されているということです。

 人類の文明史において「精神革命」を起こしたのは、いわゆる世界の諸聖人と言われる人々でした。まずは「魂の配慮」という人間の内面的倫理を西洋で確立したソクラテス、周時代の「天」を地上で人倫化し「礼」の根底に「仁」を見出した中国の孔子、「縁起」は空であるという自覚から「慈悲」の必要性を説いたインドの釈迦、ユダヤの「律法」を超えた神の「愛」が救済をもたらすと信じたキリストです。

 廣池先生はこれらの諸聖人の中に日本のご皇室の祖先神であり「慈悲寛大自己反省」の精神的体現者である天照大神を加えていますが、その再評価は日本文明を受け継ぐ私たち日本人の手に委ねられています。

 

 

●科学文明がもたらした負の遺産

 科学革命は、科学技術で物質とエネルギーの生産の極大化をめざす産業革命や知の極大化をめざす情報革命を引き起こしました。それによって私たちは物質的に豊かで便利な生活を手に入れ、現在のようなIT中心の知識集約型文明を築いてきたのですが、私たちはすでに物資と知識だけでは幸せになれないことに気付き始めているのです。

 それどころか、物質やエネルギーの極大化は自然搾取につながり、環境破壊、資源の枯渇、生態学的危機に直面することになりました。私たち人間も、物質的豊かさと反比例するように、精神的価値の希薄化や、エミール・デュルケーム(フランスの社会学者・1858~1917年)の言う「精神的アノミー」(社会の規範の弛緩や崩壊により生じる精神的な無規範状態)にさいなまれるようになりました。

 ITの発達は情報過多の現象により、ネット・SNS依存、自立性の喪失、心の空虚さや無気力という問題を生み出しています。つまり、モノや情報といった外的なものの豊かさだけでは決して幸福にはなれないことが明らかになったのです。というのも、ITはいかに進歩しても、私たちの本当の幸せは何かを教えてくれないからです。

 

 

●どのような方法で文明を進化させるのか

 現代の私たちに必要なのは、外的な豊かさが内面的な道徳的価値に結びつき、真のウェルビーイング(その人にとって真の利益にかなう幸福な状態)が実現するような新しい文明を創造することだと思われます。では、どうすれば今の文明をよりよきものへと進歩させることができるのでしょうか。

 文明の一歩進んだものが文化だとして、今日的な意味での「文化」(culture)を使用したのはイギリスの文化人類学者のエドワード・タイラー(1832~1917年)でした。もちろん、文化と文明の関係やあり方についてはいろいろな考え方がありますが、社会の集団文化とは、社会の一員としての人間が「学習」を通して獲得する能力だとするタイラーの視点は注目してよいと思われます。というのも、廣池先生も文明の進化には「学び」が必要だと考えているからです。

 ただし、廣池先生のめざす文明の向上は、近代文明の程度内におさまるものではありません。その目的は「今日の文明をより一歩進めたる将来の文明すなわち文化を造り出す」ことにあり、そのための「本質的手段」として、人々の心を開発することを提唱しています(新版『道徳科学の論文』⑧第一四章一〇項二節)。廣池先生は、得てして宗教的にとらえられがちな世界諸聖人による「精神革命」を普遍的で公正な学問の見地から科学的に捉え直し、モラルの視点から「私たちの生き方の革命」、伊東先生の言葉を借りれば、「人間革命」をめざしたと言えるのではないでしょうか。

 タイラーとの違いは、廣池先生の考える学びの対象が多様な文化活動というよりも、世界諸聖人の教説・教訓・事跡に一貫する原理にフォーカスされていることにあります。その特徴は、「精神革命」を起こした諸聖人の知徳一体の学問的思想を教育によって学び伝えようとすることです。さらにその学びは、単なる理論的、自己完結的な学習だけで「事足れり」というのではありません。学んだ個人が他者との全人格的なコミュニケーションを通して、その学問的原理を他者と共有し、互いの品性の向上をめざして実生活で実践し、相互のウェルビーイングを実現していくことが最も重要だと考えます。アメリカの組織行動学者のデイヴィッド・コルブ(1939~)が提唱した「経験学習」のように、頭で理解するだけでなく、理論と実践の往還が求められているのです。

 

 

●現代の量子物理学からのアプローチ

 皆さんの中には、モラロジーの基礎をなす学問が一世紀も前のものであり、廣池先生の考え方も現代の科学からすれば古くなっているのではないかといぶかる方がいらっしゃるかもしれません。しかし古いのは、ルネ・デカルト(フランスの哲学者)の考えたような機械論的な世界観であり、近代的な心身二元論であり、多種多様な現象を独立した要素に分割して説明しようとする要素還元主義的な考え方です。

 それに対し現代の最先端の量子物理学では、生命と意識と物質は独立した存在でなく、相互に結ばれ、響きあいながら、宇宙というダイナミックな量子ワールドを構成しているエネルギーの場と考えられています。最先端の量子物理学の世界を紹介した『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』の著者のリン・マクタガート(医療ジャーナリスト)も、私たちは「自然が生んだたんなる偶然の産物」ではなく、この世界には「目的と統一」があり、「私たちの行為や思考は……この世界を形成するために不可欠」であると、人間と宇宙とをつなぐ量子フィールドの世界観を科学的に説明しています。

 もちろん、廣池先生の時代の科学は近代科学文明の古典的パラダイムの範囲内におさまるものかもしれません。しかし、廣池先生の場合は、従来のコンセプトを尊重しながらも、時としてそのパラダイムの壁を越えようとする斬新性と創造性があるように思えます。たとえば、本来、道徳とは地上における人と人との関係性をいうものですが、廣池先生は『道徳科学の論文』の第二自序文の冒頭でその大前提に宇宙を想定し、「天地剖判ほうはんして宇宙現出し、森羅万象しんらばんしょう(よろずのもの)この間に存在して、いわゆる宇宙の現象を成すに至れるは、偶然にしてしかることは出来ないのである。必ずやその原理もしくは法則ありてここに至れるものである」と述べています。これを量子物理学的に言えば、人間を含め宇宙のすべてのものは、ミクロの世界において、他のあらゆるものと結びついたエネルギーの場の原理によって統合されているということでしょう。

 繰り返しになりますが、当時は現代ほど量子物理学が発達していたわけではありません。しかし、廣池先生は、最新の量子物理学が解き明かしたような宇宙観を持ち、常に近代科学ではとらえきれない超越的世界に眼差しを向けていたように思えるのです。というのも、ちょうどシェイクスピアがハムレットに「ホレイショーよ、天と地の間にはお前の哲学などには思いもよらぬ出来事があるのだ」(There are more things in heaven and earth, Horatio, / Than are dreamt of in your philosophy.)と言わせているように、廣池先生も、近代科学などには思いもよらぬ出来事があることを実際に体験されていたからです。『道徳科学の論文』で廣池先生が人倫も含めた天地自然の法則を解き明かすために科学的言説ディスコースを用いたのは、イエスが神の摂理を人々に説明するときに譬え話を用いたことと一脈通じるところがあるかもしれません。

 それにつけても思い出すのは2018年、廣池幹堂理事長のご発案でダライ・ラマ法王14世に麗澤大学名誉博士号を授与した時、ダライ・ラマから「最新の科学者の中から、チベット仏教と現代の量子力学との間には形而上学的なコネクションがあるという意見が出ているのだが、あなたはどう思いますか」と尋ねられたことです。その時は「誰にも分からない(神のみぞ知る)」(Only Gods knows )という英語の表現をもじって「仏陀ぶっだのみぞ知る」(Only Buddha knows )というジョークでお互いに爆笑してお茶を濁したのですが、今なら「無から有を生じる」という廣池先生の箴言、ブラーフマン(梵)とアートマン(我)による仏教的「梵我一如ぼんがいちにょ」の思想と量子物理学の関係について熱く語りあえたかもしれません。今こそ「温故知新」と科学的精神でモラロジーの原点に戻ることが必要ではないでしょうか。

 

ダライ・ラマ法王14世(前列中央)に麗澤大学名誉博士号を授与。左は廣池幹堂 当財団・学校法人廣池学園理事長、右は筆者(2018年11月19日)

 

(『まなびとぴあ』令和5年6月号「令和のオピニオン」㉘より)