川上和久 – 庶民も受け入れた「武士の生きざま」

川上和久

麗澤大学教授

 

 

●他国とは異なるレベルのものとしてく

 新渡戸稲造の『武士道』、第9章では「忠義」を論じている。「忠義(loyalty)」とは、「私欲をさしはさまないで、まごころを尽くして主君や国家に仕えること」を指す。目上の者に対する忠義も含め、およそ、統治が始まったと同時に「忠義」の概念はすでにあったと考えていいだろう。

 中国の後漢(25年-220年)時代を記した紀伝体の歴史書である『後漢書』の中の「桓典伝」の中に、すでに「忠義」という言葉が出てきており、日本でも武士が登場する以前から、『続日本紀』などに、「忠義」という言葉は使われ始めている。

 しかし、新渡戸は、

「封建道徳には、他の道徳体系や、武士以外の階級にも共通しているものも多くあった。しかし、この目上の者に対する服従と忠誠の徳は、封建道徳の中ではっきりとその特色を示すものである」

と、武士道における忠義は、他国の忠義と異なるレベルのものであり、

「われわれ日本人の抱く忠義の観念は、他の国の人には、賛美されないかもしれない。しかしこれはわれわれの観念が誤りである故ではなくて、おそらく他国の人々が、それを忘れ去ったからであり、また、われわれが他のいかなる国においても到達できなかった程度の高さまでこの観念を発達せしめたが故であろう」

と、忠義の観念の日本における特殊性を強調し、アメリカの牧師グリフィスの

「中国においては、儒教が親に対する服従をもって、人間第一の義務にしているのに対し、日本においては、主君に対する忠誠をその第一義に置いている」

という言葉を引いている。

 武士の世界でなくても、集団の中で、上の命令に従うことは、集団の目的を達成するために必要なことであり、社会学者のタルコット・パーソンズも、さまざまなレベルの集団で、「目的達成機能」を1つの不可欠の要素としてあげている。だが、目的達成のために上の命令に従うことは、忠義の定義からいっても、忠義と同義ではないことは明らかだろう。

 

 

●忠義の究極の形

「忠義」の中でも、武士が「主君への忠誠」を特に重んじたことに新渡戸は触れているが、その典型として、歌舞伎や人形浄瑠璃などで演じられている有名な「菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ 寺子屋の段」を挙げている。

 江戸時代の歌舞伎などの演目は、ご公儀をはばかって、時代をさかのぼることが多いが、江戸時代初期の1746年(延享3年)に大坂竹本座で初演された「菅原伝授手習鑑」も、9世紀を生きた菅原道真公の幼い息子、菅秀才をめぐって物語が展開する。

 菅原道真は、言うまでもなく、武士ではない。むしろ、学者・政治家として名を成している。

 道真は、845年(承和12年)、代々の学者の家系の中で、菅原是善の子として生まれ、学問に秀で、文章博士となった後に、讃岐守となった。関白藤原基経がその権勢を宇多天皇に認めさせた阿衡あこう事件の解決に努力して宇多天皇に信頼され、藤原氏を押さえるため、藤原基経の死後蔵人頭に抜擢された。

 899年(昌泰2年)に藤原時平が左大臣になった時に道真も右大臣に任ぜられた。学者としては異例の出世であったが、藤原時平との権力争いの中で、901年(延喜1年)、九州の大宰権帥に左遷され、903年(延喜3年)に九州の地でその生涯を終えている。

 道真は、政敵である時平によって都を追われる身となったが、後世の「菅原伝授手習鑑」では、その後を以下のような「忠義の物語」にしている。政敵はなお、道真の一族も滅ぼそうと、幼い道真の息子、菅秀才を探し求めて亡きものにしようとする。詮索する中で、道真の家臣だった武部源蔵が、その里の寺子屋に菅秀才をかくまっていることを知り、源蔵に「子供の首を打って差し出せ」と命ずる。

 源蔵は、寺子屋にいる子供の中から身代わりをと悩むが、寺子屋の子供達の顔は田舎者の顔ばかり。ところが、新たに寺子屋に入ってくることを希望した小太郎の、幼君と年恰好も面差しもよく似た育ちの良さそうな顔を見て、源蔵は小太郎を身代わりにすることを決意し、小太郎の首を討つ。

 その後、敵方に仕える春藤玄蕃と松王丸がやってくるが、松王丸は菅秀才の顔を知っており、渡される菅秀才の首が本物かどうかを見分ける「首実検」のため同行しており、松王丸は「菅秀才の首に相違ない」と言い、一行は首を携え寺子屋を後にする。

 その後、小太郎の母親・千代が小太郎を迎えにやってくる。千代は、「菅秀才のお身代はり、お役に立てて下さったか」と思わぬ言葉を口にするが、実は、小太郎とは松王丸と千代の1人息子だった。松王丸は敵方に仕えながら、恩義ある菅原道真公のために役に立ちたいと願い、小太郎は自分の命をささげる決意をして寺子屋にやってきたのだった。

 子供の命をスケープゴートにするようなこの話を、日本では受け入れられても、他国では認めない場合も多いだろうと新渡戸は予想する。

「西洋の個人主義は、父と子、夫と妻に対しても、それぞれの利害を認めているので、人の他に対して負う義務は必然的に軽くなる。だが武士道は、一家とその利害は一体であって分けることはできず、その利害は愛情と結びついており、自然でかつ本能的なもので、これに抵抗することができない」

と説明している。それでも、主君の恩義に報いるために自分の子供の命を差し出すなどという究極的な選択の「忠義」を、なかなか理解することは難しいだろう。

 しかし、この物語が、物語ではあっても、江戸時代に「武士の忠義」として人形浄瑠璃や歌舞伎などの形で一般庶民にも広く受け入れられた背景には、「忠義のために子供の命をも差し出す」武士の生きざまを、忠義の究極の形として庶民も受け入れていたことがあるだろう。

 武士道においては、主君に対して、忠義を透徹することが求められ、そのために何をすればいいのか、西洋とは違う形で忠義のあり方が顕現していったことを、新渡戸は「菅原伝授手習鑑」を通して伝えようとしたのだろう。

 

 

参考文献
 新渡戸稲造 須知徳平訳 『武士道』 講談社

 

(令和5年5月11日)