髙橋史朗138 – LGBT理解増進法と「性・ジェンダー革命」
髙橋史朗
モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所 教授
麗澤大学 特別教授
●自民党で紛糾した二つの論点
令和3年に立憲民主党が提出していた「LGBT差別解消法案」を取り下げ、自民党の「LGBT理解増進法案」を修正することで自民党の稲田朋美議員と立憲民主党の西村智奈美議員の間で与野党合意が成立したが、その合意内容について自民党政務調査会や総務会で紛糾し、継続審議となった。
ところが、荒井勝喜元首相秘書官が「同性カップルが隣に住んでいても嫌だ」とオフレコ蔑視発言をして更迭されたことを契機に、この凍結された「LGBT理解増進法」の制定が再浮上し、今国会の焦点になっている。自民党以外の主要政党は同法の制定に同意しており、自民党の動向が焦点となっている。
推進派は5月の広島サミットを控え、LGBT差別解消がG7共通の原理原則であり世界の潮流として政府に圧力をかけ、2月20日の自民党役員会で岸田首相は法案提出へ向けた準備を指示し、茂木幹事長は「法案は極めて重要。なるべく早く提出することが望ましい」と発言した。
2年前に自民党内で紛糾した論点は二つあり、与野党合意によって、自民党案の法律名や目的の条文にあった「性同一性」が「性自認」に変更され、目的を定めた条文に「性的指向及び性自認を理由とする差別は許されない」という一節が加わった点にあった。
「性同一性」については、平成15年に制定された「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」に、「生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者」と定義されている。
「性同一性」という表現の見直しについては、WHOが1990年に「同性愛」を精神疾患から除外し、2019年に「性同一性障害」についても「精神障害」の分類から除外し、「性の健康に関連する状態」の分類中「性別不合」と表現するようになったという背景がある。
では「性自認」とは一体何か。「性自認」とは、自分の性別をどのように認識しているかということである。そこで、「性自認を理由とする差別は許されない」と修正されたことが問題視されたのは一体なぜなのか。
自民党の「性的指向・性自認に関する特命委員会」が平成28年に作成した「Q&A」によれば、「何が不当な差別に当たるのかといった共通認識もいまだに議論の過程にある」中で、「差別解消」「差別禁止」を盛り込めば、「予期せず、加害者となってしまう人を作ってしまう」、「結果として企業や国民の生活や言動に対する過剰な介入にも繋がる」として、「差別解消」「差別禁止」に規定に慎重な立場であると説明している。
●LGBT当事者4団体の共同要請書
1月16日、LGBT当事者である「女性スペースを守る会――LGBT法案における『性自認』に対し慎重な議論を求める会一」「性別不合当事者の会」「白百合の会」「平等社会実現の会」が、次のような「『性自認』に基づく差別解消法案・理解増進法案に関する共同要請書」を岸田首相並びに各政党党首に提出し、地方議会にも送付した。
1 gender identity:審議するにあたっては、拙速に提出することなく、女性の権利法益との衝突、公平性の観点からの研究・検討をし、先行した諸外国の法制度と運用実態、混乱などの問題、またその後の制度変更などもしっかりと調査し、国民的な議論の上で進めて下さい。
2 仮に法令化するのであれば、生物学的理由から女性を保護する諸制度・施設・女性スペース、女子スポーツ等々において、元々は男性だが女性と認識する方を「女性として遇せよ」という趣旨ではないことを明確にする、また別途女性スペースや女子スポーツに関する法律を制定するよう求めます。
3 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律のうち「手術要件」は削除せず、男性器ある法的女性が出現しないようにして下さい。
「要請の理由」として、「性自認」は主観的かつ曖昧な概念で外観からは分からないから、「何をもって差別とするのか」の議論がされず不明確なまま法が制定されれば、たとえ理念法であっても「女性として遇せよ」「そうしなければ差別になる」趣旨になり、様々な女性スペース(女子トイレ・女湯・女子更衣室・女性専用マンション・病院・シェルター等)についても「利用公認しなければ差別だ」と訴訟などで主張される怖れがあり、近代法の基本的な前提である「性別」の定義があいまいになる、と説明している。
「要請の理由」説明で注目されるのは、「女性スペースの防犯上の問題」を強調している点に加えて、次のように指摘していることである。
<手術などを予定しないいわゆる狭義のトランス女性を含めて、多くが「女子トイレの利用公認を」などと求めていると考えるのは誤りです。…LGBT法連合会に集う団体活動家は、「女性として遇せよ」としてトランス女性の「女子トイレの利用公認」などを説いて運動しているのですが、これこそが「性の多様性を尊重」していないものであり、方向性を全く間違えている…性別は現生人類になる前から男と女でした。性分化疾患の方がいますが、どちらかの性別であるものです。多様性があるのは、時代と地域で異なる社会的・文化的な「性ジェンダー」なのであり、「性別セックス」ではない>
●「社会的・文化的性差」の解体を目指す「ジェンダーフリー」思想
「ジェンダー」については説明が必要であろう。自然的・生物学的性差(セックス)に対して、社会的・文化的性差をジェンダーという。このジェンダーという用語は1995年の第4回世界女性会議で採択された北京宣言及び行動綱領においてはじめて使用された。
上野千鶴子東大名誉教授によれば、「なぜこんな新しい概念が生まれたかといえば、生まれつき決定されていると考えられるセックスに対して、ジェンダーの多様性や変化の可能性を示すため」であり、「社会的につくられたものだから、社会的に変更することができる」ことを明確にするために、あえて「ジェンダーという外来語を訳さずにそのまま使っている」という。
ジェンダーは社会的・文化的概念であるから、人間社会のありとあらゆるところに見出すことができる。それ故に、ジェンダーという言葉を武器にして社会全体を変革し、現在の在り方を根本的に覆すことができるという訳である。
「ジェンダー・バイアス(ジェンダーに根差した偏見や固定観念)を取り除く」という掛け声のもとに、にわかにこの耳慣れない言葉が登場し頻発されるようになってきた背景には、このような「ジェンダーフリー」思想の狙いや思惑が潜んでいたのである。SDGsの目標の一つに掲げる「ジェンダー平等」にも同様の狙いや思惑が潜んでいることは、前回の本連載で紹介した長谷川三千子埼玉大名誉教授の指摘通りである。
このジェンダーフリー思想の最大の問題点は、「ジェンダーは抑圧を生む」という迷信と一体になっており、男女の関係を支配・被支配の敵対関係と捉え、男の女に対する「抑圧システム」「権力装置」からの解放を目指している点にある。
ドイツの社会学者ガブリエル・クビー著『グローバル性革命――自由の名によって自由を破壊する』には、国連が主導する「グローバル性革命」「包括的性教育」の歴史的系譜と欧米における社会的混乱、弊害の実態が詳述されており、本連載並びに月刊誌『正論』の昨年3月号の拙稿「社会的混乱を狙うグローバル性革命」において詳述した。
●英米の社会的混乱と教育への悪影響
前述したLGBT当事者四団体の「共同要請書」でも、本連載132の拙稿「LGBT問題をめぐる国際・国内動向の比較的考察」で詳述した英米の社会的混乱や弊害について、次のようにしっかり調査するよう求めている。
<イギリスでは、昨年4月の首相発言にあるように、行き過ぎた「性自認の法令化」が女性の権利法益を侵害していることから正常化に舵を切り、苦労を重ねています。地方政府のスコットランドでは性別変更をより容易にする議決をする一方で、女子刑務所でトランス女性による強姦事件が発生したことなどで混乱を重ね、この2月、首相が辞任するに至っています。米国政府は我が国に様々な要請をしている模様ですが、この問題については米国各州で実に方向性が異なり、それぞれに混乱があって参考になりません。…政府におかれては、諸外国の状況をしっかりと調査した上で、方向性を定めて下さい>
最も懸念されるのは、LGBT理解増進法案・差別解消法案が教育、とりわけ性道徳・性規範の解体を目指す「包括的性教育」に及ぼす悪影響である。米フロリダ州では昨年3月、幼稚園や小学校3年生まで性的指向・性自認教育を禁止する州法を制定し、全米10州に広がり、19州で「反LGBTQ法」が制定され、親と学校の対立・分断が深刻化し、大混乱に陥っている。ちなみに、全米31州で「スポーツの性区分は出生時の性とする」と州法に明記している。
イギリス、スウェーデンの幼稚園では「お父さん・お母さん」の呼称を禁止し、スイスでは、「親1・親2」を使用し、イギリスで性転換手術をした子供は2009年には77人であったが、2019年には2590人に急増し、イギリスで唯一の児童ジェンダー医療機関が今春閉鎖され、ホルモン治療・外科手術などを中止した。
●海外と日本で生じている弊害の具体例
信仰上の理由で結婚式や里子斡旋等を拒否したことが差別と糾弾された事例には、アメリカで「同性婚結婚式」「ウェディングケーキ作成」「写真撮影」「フラワーアレンジ」を信仰上拒否した人が「差別」と糾弾されて訴訟に発展したり、里親斡旋のキリスト教系団体が、ゲイカップルへの里子斡旋を拒否したところ、活動停止処分になったり、ケーキ職人がゲイカップルのケーキ作成を断ったところ、州公民権委員会から差別と認定され、営業停止を勧告された等の事例があり、日本で「差別解消」が条文化されれば、神前結婚式や戒名の拒否などが訴訟として告発されたり、行政指導を受けるおそれがある。
また、トイレなどで女性の権利が侵害された事例には、アメリカで女性用温泉施設に男性器を露出したトランス女性が入り、女性客の抗議が州法違反と糾弾されたり、女子刑務所に収監されたトランス女性が、受刑者2名を妊娠させ、ノルウェーでトランス女性に抗議した女性が警察に通報されたり、イギリスで手術せず自己申告のみで性別変更を可能にしたため、男性器をもつトランス女性がジムにシャワールームに入ってトラブルが起きた等の事例が報告されている。
さらに、スポーツ分野で女性の権利が侵害された事例には、サッカー、ハンドボール、ボクシング、ウエイトリフティング、アイスホッケー、バスケットボール、体操などでトランス女性が女性種目への参加が容認され、ニュージーランドの五輪女子重量挙げ代表にトランス女性を選出したことなどがある。
国内では、経産省のトランス女性職員に離れたフロアのトイレ使用を指示し、「手術を受けないなら男性に戻ってはどうか」と指導したことへの賠償請求があり、国側が地裁で敗訴。渋谷区の17か所の公衆トイレから女性専用トイレをなくしたり、荒川区の53か所の女子トイレをバリアフリートイレに置き換える動きがある。
LGBT差別解消を求める最大ネットワークである「LGBT法連合会」は、ネット言論はデマが多く、「法制化されても社会は混乱しない」「60の自治体で差別禁止条例が施行されているが、社会が混乱した事実はない」「差別と憎悪を助長する」と主張している。
●「性の多様性」条例の本質は「性革命イデオロギー」
地方自治研究機構の調査によれば、61の地方自治体で条例が制定されているが、男女共同参画推進条例としてすでに制定されていた条例に、「性的指向・性自認」に関する規定を追加・改正した条例が含まれており、これとは別にレズビアンやゲイカップルの公営住宅への入居や、公営病院での面会・手術の同意など、法律婚夫婦同様に受けられるようにする「同性パートナーシップ制度」を制定する自治体も増えている。
「性の多様性を尊重する条例」も広がっており、家庭・学校・地域社会の教育に携わる者の意識改革や報告提出などの責務を明記した条例などもあり、今後アメリカで対立が深刻化した学校と親の対立が日本でも起きる可能性がある。
教育基本法第10条は教育の第一義的責任は保護者にあり、子供の自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする、と親の責任について明記しているが、「性自認」等の「性的自己決定権」を「性的自由」として尊重することを目指す「包括的性教育」の推進によって、3年間に及ぶ中教審論議を踏まえて策定された性教育の①発達段階を考慮、②保護者・地域の共通理解、③学校全体の共通理解、④集団指導と個別指導の内容を区別、という「歯止め規定」が空洞化する恐れがある。
経団連の十倉会長は3月20日の記者会見で、「日本は欧米に比べ遅れており恥ずかしい」「各国で差別禁止や同性婚法制化が進む中、理解増進法案の速やかな成立を期待する」と述べたが、海外の社会的混乱や弊害についての認識が全く欠落している。この海外の現状を踏まえて慎重かつ根本的な議論を尽くす必要がある。
LGBT問題と「包括的性教育」の思想的背景を理解するには、クビー著『グローバル性革命』が必読文献であり、現在日本語版の出版計画を進めているが、同書は教皇庁典礼秘蹟省長官であるロベール・サラ枢機卿が「今日の西欧の同性愛と中絶のイデオロギーは、20世紀のナチス・ファシズムや共産主義のようなもの」と喝破した「グローバル性革命」と「包括的性教育」の本質と歴史的経緯をみごとに解明している。
プリンストン大学のロバート・P・ジョージ教授は「性革命イデオロギー」を受け入れた「文化戦争」に関する「最も包括的な入門書」として、同書を推薦しているが、フェミニズムとジェンダーイデオロギー、「ジェンダー主流化」そのものを根本的に問い直す必要があろう。
「多様性尊重」の名のもとに「開発の暴走」を制御してきた我が国の美しい「文化や慣習」という防御装置を解体する愚を犯してはならない。「性革命イデオロギー」に基づく「文化戦争」という視点から、「多様性に通底する価値」を洞察することが求められている。
(令和5年4月21日)
※髙橋史朗教授の書籍
『WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)と「歴史戦」』
『日本文化と感性教育――歴史教科書問題の本質』
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