髙橋史朗134 – ウェルビーイング論議に欠落している視点と「道徳的文化」育成の課題
髙橋史朗
モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所 教授
麗澤大学 特別教授
●聖人の幸福観と「スピリチュアル・ウェルビーイング」の視点が欠落
日本道徳教育学会と日本家庭教育学会の中心的な大学教授らに世話人になっていただいて開催してきた「脳科学等の科学的知見に基づく家庭・道徳教育研究会」を発展的に解消して、モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所の共同研究として、「ウェルビーイングと人類の安心・平和・幸福」をテーマに研究を深めることになった。研究会は引き続き私が代表者を務め、オンライン形式で開催する予定である。
本連載の拙稿76「学祖の和の諸相と縦・横軸の道徳が調和する『幸福』という視点に学ぶ」において、「道に志す」姿が学祖・廣池千九郎(1866-1938 法学博士、当法人の創立者)の理想とする生き方であり、縦軸の国家・家の伝統と横軸の社会・国際道徳の調和の上に「個人の幸福というものの基礎」を置き、「国民としての国家生活」と「個人としての社会生活」を充実させていくことが「道徳の基本」であることについて詳述した。
学祖は『道徳科学の論文』第一巻において、「幸福を実現することを目的とするところの社会を実現するには、道徳によらなければならぬ」「道徳は、かかる因襲的にして浅薄且つ形式的なものでは人類を救済する力なきことを覚り、いま一歩を進めたる古来東西の聖人の実行せられたる最高道徳…を人類一般に普及させねば、今後の世界を平和にして全人類を幸福にすることは出来ない」「真に権威ある道徳の科学的研究によりて、これを上下各階級の利己心に訴えて、道徳を行うものは栄え、然らざるものは亡ぶということを示して、その反省を促すほか方法はない」「各国民の利己心に訴うるところの道徳の科学的研究の結論に基づかなくてはならぬのであります」(20-22頁)と説かれている。
ポジティブ心理学のウェルビーイング理論は「主観的幸福感」を重視しているが、人類の安心・平和・幸福を目指した「古来東西の聖人の実行せられたる最高道徳」及び「スピリチュアル・ウェルビーイング」の視点から、ウェルビーイングの本質は何かについての科学的研究を深める必要がある。
世界保健機構の執行理事会は、WHO憲章全体の見直し作業の中で、身体的、心理的、社会的側面に加えて、スピリチュアル・ウェルビーイングの定義を追加するよう提案し、スピリチュアリティに含まれる4領域と18下位領域を明確化した(拙稿「日本発のSDGs・ウェルビーイング教育についての一考察⑴」『歴史認識問題研究』第12号所収論文の注23、参照)が、宗教論議が絡むためかウェルビーイングの定義に追加するには至っていない。
4領域とは、①個人的な人間関係、②生きていく上での規範、③超越性、④宗教に対する信仰で、①には、親切、利己的でないこと、周囲の人を受容すること、許すこと、②には、生きていく上での規範、信念や儀礼を行う自由、信仰、③には、希望、楽観主義、畏敬の念、内的な強さ、人生を自分でコントロールすること、心の平穏、安寧、調和、人生の意味、絶対的存在との連帯感、統合性、一体感、諦念、愛着、死と死にゆくこと、無償の愛、が含まれており、ウェルビーイングの本質を探究する上で必要不可欠な視点といえる。
●「老年的超越」の視点からウェルビーイングの意味を見直す――老人の「死に甲斐」
また、高齢化社会の到来により高齢期に高まる、物質主義的、合理的な世界観から自分が宇宙という大きな存在に繋がっていることを自覚する超越的世界観へと変化する「老年的超越」の視点からもウェルビーイングの意味を問い直す必要がある。
発達心理学者のエリクソンが身体的・精神的・社会的の3つの視点から分析し、心理的・社会的危機を乗り越えていくことを提唱した発達段階論によれば、65歳以降の老人期の発達課題は「自己統合と絶望」である。
退職して人生の意味を見失って絶望し、老後に不安を抱え、精神疾患を発症する老人が増えているが、自己統合が絶望を上回った時に幸福感を実感できるようになる。
「自己統合」とは一体何か? 魂の成長のために幼少期につらい経験をしたり、問題の多い親・家庭を選択して生まれてきた人が多くいるが、それ故に、幼少期に深く傷ついたことで抱えてきた深い悲しみや強い怒りを優しく癒してあげる必要がある。
人格形成に深く影響している闇の記憶と光の記憶、ネガティブな感情とポジティブな感情を統合することを「自己統合」といい、あれは良い、これは悪いとジャッジすること自体をやめ、執着を手放し、思い通りにいかないことでもそのまま受け入れて、自分以外の誰かをコントロールすることを手放すことによって魂の浄化が促され、目標や自分軸が定まる。
この「自己統合」が老後の不安や絶望を上回る「老年的超越」の視点からウェルビーイングの意味をさらに深く掘り下げ、ホスピス(死が迫っている患者とその家族の苦痛を最小限にすることを主な目的とするケアのプログラム)やターミナルケアの視点から「老人の死に甲斐」(本連載の拙稿86「人生五計説から『死に甲斐』について考える」参照)についても考察を深める必要がある。
●品性を育むアメリカの「人格教育」の実践モデル
聖人の幸福観に見られる「人類の安心・平和・幸福」、スピリチュアル・ウェルビーイング、老年的超越の視点に加えて、「品性」の完成に力点を置いたアメリカの「人格教育」や保育が子供の発達に与える影響、「非認知能力」を育む子育ての視点からも、子供のウェルビーイングについて考察する必要がある。
ケヴィン・ライアンらの共著『グローバル時代の幸福と社会的責任 ―― 日本のモラル、アメリカのモデル』(麗澤大学出版会)に序文を寄せたニューヨーク州立大学のトーマス・リコーナ名誉教授は、「人格教育とは、若者が中核的な倫理的価値を理解し、関心を持ち、実行するのを支援するための学校・家庭・共同体による意図的な努力である」と定義している。
同教授は『人格教育のすべて』という著書で、ある学校の校門に掲げられた次のようなメッセージを紹介している。
<考え方に気をつけなさい。あなたの考えたことはあなたの言葉になるでしょう。言葉に気をつけなさい。あなたの言葉はあなたの行動となるでしょう。行動に気をつけなさい。あなたの行動はあなたの習慣となるでしょう。習慣に気をつけなさい。あなたの習慣はあなたの人格となるでしょう。人格に気をつけなさい。あなたの人格はあなたの運命となるでしょう>
つまり、人生は人格によって決まり、運命を決定づける人格を形成するには、善良な言葉と行動を習慣化する必要があり。それを可能にする道徳教育が「人格教育」の中心的課題といえる。
2011年に全米NPOの「人格教育パートナーシップ」から優良な人格教育実践校として「全米人格教育校」に、翌年には米国教育省から成績優秀校として「全米ブルーリボン校」に選ばれたシアトル郊外のリンドバーグ高校は、「効果的な人格形成のための11原則」を実施し、独自の「6つの人格の柱」を掲げて、生徒に善良な道徳的習慣を形成するよう指導している。そのような教育方針を反映し、校内には「人格が重要だ!」と書かれたポスターが貼られ、視覚的にも学校の明確な教育方針が周知されるよう工夫がなされている。
また、セントルイス地区のリッジウッド中学校では、全教師が自分の教育方針をわかりやすく説明したプレートを教室の入り口に掲げ、「私は書くことや読むことが好きなので、いろいろな作品を楽しく読んで、あなたの幸福を向上させるための授業をしたい」などの所信表明をイラスト入りで掲示している。
生徒の道徳的行動を引き出すためには、教師が生徒のロールモデルとなって手本にならなければならないという共通認識がある。リコーナ教授も「生徒の人格にインパクトを与えるべき唯一最強の道具はあなた(教師)自身の人格である」と指摘しており、教師が後ろ姿で教える人格的感化力こそが道徳教育の要であることを強調している。
●「道徳的文化」育成と「道義国家」建設を目指して
アメリカでは1990年代以降、品性徳目教育に力点を置いた「人格教育」に力を入れており、前述したように大きな成果を上げている。この「人格教育」の特徴の一つは、「感謝」「従順性」「正直」「思いやり」「勇気」「権威」「責任」「忍耐」「配慮」などの徳目を理解するとともに、道徳的感情を養い、具体的な行動に結び付けて習慣化させるところにある。
日本道徳教育学会副会長・事務局長の貝塚茂樹武蔵野大学教授は「人格教育」について、次のように指摘している。
<特別の教科である「道徳」は、米国の「人格教育」と共通した点が多く、文部科学省は道徳を教科化するに当たって、米国の「人格教育」を参考にした節が伺える。実際、文科省の報告「諸外国における道徳教育の状況について」には、米国「人格教育」が取り上げられている。
また、米国「人格教育」の特徴の二つ目は、学校・家庭・地域社会が協力しながら、学校を中核とした「道徳的文化」を地域社会全体に築いていこうとする点にある。人格教育を積み上げていくことで、教室に「道徳的文化」築き、それを学校、家庭、地域に広げていこうというのである。
この意味で、米国「人格教育」は教育活動であると同時に、道徳的文化を築こうとする道徳的な「文化運動」であり、道徳的な国づくり運動でもある。わが国も子供たち個人の道徳育成という視点にとどまらず、地域社会における道徳的文化育成という社会的ビジョンを学校・家庭・地域社会全体で共有すべきである。
道徳の教科化を契機に、学校における道徳教育を中核にした、道徳的家庭と地域社会さらには道徳的国家の実現という社会的ビジョンへの展開こそ、今の我が国に求められているのではないだろうか>
心理学・幸福学・脳科学などの科学的知見に基づくウェルビーイング理論を前述した、「人類の安心・平和・幸福」という聖人の最高道徳とスピリチュアル・ウェルビーイング、老年的超越の視点から根本的に見直し、米国の「人格教育」モデルを参考にしつつ、日本発のウェルビーイング教育を道徳教育と家庭教育にいかに活かし、理論と実践の往還をいかに深めていくかが今後の課題といえる。
冒頭で紹介した共同研究において、SDGsからウェルビーイングへの国際動向、英オクスフォード大学ウェルビーイングリサーチセンター長らが参加して2月末に日本で開催された子供・青年のウェルビーイング国際会議、教育振興基本計画とウェルビーイングに関する中教審論議、自民党「日本ウェルビーイング計画推進特命委員会」のウェルビーイング政策論議、5月に開催されるG7教育大臣会合へのウェルビーイング提言などを踏まえつつ、子供と親と教師のウェルビーイングの向上という基本的視点に立って、家庭・学校・地域社会が連携した「道徳的文化」の育成、「道義国家」の建設を目指して、具体的な道徳教育・家庭教育の在り方についての研究を2年間積み重ねて、その研究成果を創立百周年に向けて提示していきたい。
(令和5年4月11日)
※髙橋史朗教授の書籍
『WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)と「歴史戦」』
『日本文化と感性教育――歴史教科書問題の本質』
『家庭で教えること 学校で学ぶこと』
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