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イスラム教とヒンドゥー教との対話
〜〜〜 インドにおけるイスラム寛容主義思想の可能性〜〜〜

保坂俊司

 はじめに

 グローバリゼーションの劇的な進行に伴い、21世紀の人類は運命共同体として、益々共存、共生、少なくとも人類間の対話を目指して、一層の歩み寄らねばならない状況にある。しかしその一方で、部族・民族・宗教間の紛争という古くて新しい問題が再び、世界各地で引き越されている。

 特に、19世紀以来のイデオロギー対立による冷戦構造の崩壊や、西欧近代文明(その根底は、キリスト教が形成す)の行き詰まりが自覚され始めた1980年代以降、イスラムの存在が国際社会を動かす大きな政治勢力、というより西欧文明に対抗、あるいは対決する新たな勢力として意識され、それと共に世界各地で紛争を惹起する原因となっている。(1)

 つまり、イスラムの覚醒と呼ばれる現象が、ほぼイデオロギー対立の終焉に重なる形で進行し、いわゆる「イスラム復興運動」あるいは単に「イスラム原理主義運動」などと呼ばれる運動がこれである。(2)この現象はイスラム世界が近代初頭以降の長い沈滞から目覚め、自らの存在を、武力を含めたあらゆる方法で世界に主張し始めたものと評することができるであろう。

 しかし、それにともないイスラムへの警戒心や恐怖心が、主に西欧諸国において拡大され、Sハンチントン博士のような一種のイスラム脅威論が、西側世界の共感を得るような現象も生じた。確かに、世界各地の紛争地域におけるイスラムが関係するものは多い。確かに、アフリカからユーラシア、そしてフィピンなどの島與地域においてもイスラムが絡む紛争は枚挙に暇がない。そしてその紛争の直接の原因が必ずしもイスラム自身にないとしても、イスラムが関係する紛争の数は多く、その意味で21世紀は、いかにイスラムと非イスラムとの間の平和的な共存関係を構築するかが、重要な人類全体の課題となると言う見方も成立しよう。本小論はこの視点から、イスラムの寛容思想の可能性についての検討する。(3)

 さて、この「対立し、戦うイスラム」というイメージは、イスラム自身にも浸透しているようである。特に、近年のイスラム運動を見ると、イスラムの純粋性をことさらに追求する集団が少なくなく、キリスト教のピューリタニズムのようなイスラム純粋主義的な思潮が、イスラムの正統あるいは理想形態として志向されているようである。(4)

 しかし、イスラムの歴史からすれば、むしろこのようなイスラム純粋主義以上に、イスラムを中心とする融合思想が、思想のみならず、文化的にも、そして社会的にも繰り広げられた時代が長かったのではないだろうか。

 少なくとも、「パックス・イスラミカ」と呼ばれ、紀元後8世紀から16あるいは17世紀まで、文明的にも世界を席巻していたイスラム文明は、イスラムの純粋性の追求から生まれたのではなく、むしろイスラムの寛容性から形成された、ということができよう。つまり、東は中国からインド、西はエジプトそしてペルシアやギリシア・ローマの高度な文明をイスラムという一つの土壌において融合、再構築したものがいわゆるイスラム文明であったはずである。とすれば、教条主義的なイスラム主義、つまりイスラム至上主義以外にも、異質なる共存やその融合を可能にさせたイスラムの思想的な可能性が存在したはずである。(5)

 そして、むしろこの点に着目するならば、イスラムの歴史は諸文明の融合、創造に積極的な役割を果たした寛容の宗教の歴史と見ることも可能となり、彼等との共存共栄、少なくとも対話の可能性は十分存在する。その意味で、現在余り強調されていないイスラムの融合思想とその具体例について、インドの事例を検討しよう。

 以下において、インドにおける諸宗教融合を思想のみならず、文化的、さらには政治的にも実行し、ヒンドゥー・イスラム融合文明、つまりイスラム教において最も忌避される多神教で、神像崇拝教徒との共生の可能性を現実のものとした君主アクバル帝(1542~1605)および、その孫であり、彼の思想を一層深めたダラー・シュコー(1615~1659)の思想について、比較文明の立場から検討したい。しかし、その前に、彼等の思想を理解するために、彼等が強い影響を受けたインドの異質なるものの融合に関する思想について簡単に検討しよう。

 インドにおける寛容の伝統

 周知のように、インド(ヒンドゥー教系)の思想は異質なるものの共存を前提として形成されている思想である。いわゆる「梵我一如」の思想がこれを端的に表している。(5)これをヒンドゥー系の思想では、現実世界は多様なる原理や様相によって形成されているように見えるが、それらは存在における仮の姿、つまり真実の姿ではなく真の存在の展開(これをプロティノス流にいえば、唯一なるものの流出ということになろう。)とみるのである。

 つまり、真実は一つであるが、その現実世界への展開は、無数にあるということである。この思想は、早くも紀元前1200年を中心に編纂されたとされるヒンドゥー教の聖典『ヴェーダ』の内にその萌芽があるとされるが、その最終的な完成は、紀元前5世紀からその前後数世紀に展開されたウパニシャッド時代になされたのである。(6)

 以来、インドに展開された思想は、押しなべてこの思想を基盤としている。それは、『ヴェーダ』の権威を否定した仏教においてすら例外ではなかった。というより、ヒンドゥー系の思想の限界である『ヴェーダ聖典』の神聖化さえも否定した仏教において、『梵我一如』の思想は一層深められ、さらに普遍性を付与されたといえるのである。つまり、『ヴェーダ聖典』の神聖化を前提とするいわゆるヒンドゥー教の思想は、高度な抽象的な一元的な原理を真理の本質とするも、『ヴェーダ聖典』の権威を認める以上、その抽象原理と『ヴェーダ聖典』の神聖化との間に無視し得ない矛盾が存在することとなる。

 この矛盾を乗り越えるべく展開されたのが、いわゆるウパニシャッドの思想である。ウパニシャッドの思想は、現象世界をアートマン(個我:我)の集合体と考え、一方宇宙の最高原理であり、一元的な原理であるブラフマン(普遍我:梵)との一致(梵我一如)を説いた。個々に、多様なる現象世界と普遍的な絶対世界との究極的な一致(同一性)の思想が成立した。しかし、ウパニシャッドではこれを論理的、体系的に説明していないとされる。そしてこれが可能となったのはヴェーダンタ哲学の大成者の一人であるシャンカラ(紀元後700頃〜750頃)の不二一元論の体系によってである。(7)

 しかし、仏教では早くも、ゴータマ・ブッダ(紀元前463年〜同383年頃)によって、この問題は克服された。つまり、ブッダの思想を受け継ぎ、発展させた仏教では、「法(ダルマ)」と呼ばれる抽象的原理の存在をたて、これを真実世界(真実諦)と世俗世界(世俗諦)との2つに分け、いわゆる世俗世界における多様性を積極的に肯定した。

 つまり、世俗世界を構成するそれぞれの要素は、それぞれの「法(ダルマ)」によって成立しているのであり、その数は無数と考えるのである。しかもそれらの法は、互いに関係しあって(縁起)存在しているという意味で、どれ一つとして独立して存在し得ないもの(「有為法」)と認識する。故に、現実の社会における如何なる存在も、決して無駄なものはなく、同時に絶対的なものはない(法空)、というのが仏教の主張である。(8)

 つまり、仏教などのヒンドゥー系の宗教では、現象界(いわゆる現実世界)を多様なるものの集合と考える一方で、その背後に唯一にして絶対なる普遍的な存在(真実の法:無為法)が存在するとするのである。ここに、真の意味での一元的思想、つまり絶対的唯一性を前提としながらも、現象界の多様性を認める思想が成立する。(9)

 インドにおける融和思想は、インドの伝統として古代以来今日に至るまで連綿として継承されている。そして、この思想はインド侵攻後、インドに定着したイスラムの世界にも深き影響を与えた。

 特に、イスラムの神秘主義思想であるスーフィズムは、その形成期において仏教やヒンドゥー教(特に、ヴェーダンタ哲学)の影響を強く受けているとされるが、イスラムにおける諸宗教、諸文化・文明の融合に大きな役割を果たしたのであった。(10)

 以上のような、思想を基礎として、インド思想界においては、異質なるものとの共存の思想が今日に至るまで極当然のこととして展開されている。(11)

 イスラムにおける寛容

 さて、典型的なセム的宗教といえるイスラムにおいて、異質なる宗教や思想を自らと同等に認めるという意味での「寛容」は成立するのであろうか。あるいは少なくとも異質なる物との共存や共生はどのようにして可能となるのであろうか?

 一般論として「イスラムは『寛容』の宗教である」ということをよく耳にする。(12)この場合の「寛容」とは如何なるものであろうか?

 それを考えるヒントは、『コーラン』にある。『コーラン』には、アッラーの属性として寛容者(^gh^affa’r)という表現がしばしば見られる。(13)これは、アッラーの99の属性が名称となったものの一つである。

 この場合のガファーラ(’ghafa’r)とは「神の慈悲において全ての存在をありのままの姿で許すことを言う」とされる。それは、塵(日本人には雪の方が理解しやすい)が、すべてのものの上に覆い被さることで、その存在を消し去るように、神の愛によって仮に多神教徒・不信心者(カーフィル)であっても、そのままで、罪を許し(イスラム支配下での)生存を許すということになる。この考えによれば、「宗教(di’n)には無理強いは禁物」(『コーラン』2〜257)という寛容の精神が生み出されるのである。これに似たものにガファラ(ghahr  )がある。ガファラは、忘れるとか見てみぬ振りをする、という意味であり、消極的な許しの思想、寛容の思想である。

 この他に、アファー(’afar)は、「ほうっておく」・「自由にする」・「忘れる」というような意味であり「許しておけ、かまわないでおけ、やがてアッラーが御自ら判決を下し給うその時まで」(『コーラン』2-103)という表現に顕著にその意味が表れる。

 このように見るならば、イスラムにおいても多神教徒であり、偶像(聖像)崇拝の徒として、忌避されるヒンドゥー教や仏教であっても、彼らを許し、共存することは『コーラン』の教えから見ても可能ということになる。

 特に、いわゆる多神教徒で偶像(聖像崇拝)の地インドに侵攻したイスラム教徒達はこの問題を如何にクリアするかに大きな思想的努力をはらうこととなった。その意味で、インド・イスラムの歴史は、イスラム教の寛容の精神が常に試され、また発揮された地域であった、ということになる。もちろん、その反対にヒンドゥー教徒などの弾圧、殺戮、あるいは対立も同様に見出せる。(14)

 最初期のイスラムの宗教政策

 イスラムのインド侵攻と定着を考える時、先ず検討しなければならないのは、インドへのイスラムの初伝の状況である。史料によればイスラムの初伝は西暦711年のムハマド・カーシム(693~716)の西インド征服戦争に始まる。勿論、それ以前にも早くも636年頃(イスラム暦15年)以降数回の征服戦争が試みられたが、ことごとく失敗に帰した前史がある。いずれにしても、インドへのイスラムの初伝が、征服軍によってなされたということは、イスラム教という宗教の性質をある面で象徴していることは事実である。(15)

 しかし、この時の征服戦争は、比較的寛容な部分もあり、後代のトルコ系ムスリムの過酷な侵略戦争とは一線を画すものである。(16)

 例えば、カーセム軍に抵抗しなかったニールン(今のパキスタンのハイデラバードにあたる)では、

「この町の長であるバンダルカル・サーマニーを重視し、あなた方を完全に信用している。私は、少しもおまえたちへの親切と保護を惜しむものではない」

さらに、

「(ニールン征服後、カーセムは)この町がムスリムの国土になり、要塞が没収された後、彼等の福利を護り、彼等を楽しませるように努めた。そして、農民も手工業者も商人も平和に暮らせるようにし、土地が耕され、繁栄するように努力した。」(17)

 というのである。その政策を生み出した精神は、カーシムの義理の父親であり、叔父であったシリア総督ハジャージ(661~714)の次のような言葉によって明らかとなる。つまり、

「ブラフマナーバードの尊敬される人の願いである彼等のブッダの寺院の修復と彼等の宗教を保証しなさい。(勿論、この条件として、彼らがイスラム勢力に服従すること、カリフに対して税金を払うことをあげている。その上で、)我々には彼らの財産を奪うことはできない。なぜならジンミーになったものたちの、財産を奪う権利はないからである。そして彼らは、彼らの信仰を禁止されたり、迫害されたりされてはならないし、彼らの生命は脅かされてはならない」(18)

と考えられていたからである。仮にイスラムへの服従や税金の支払いが強制されていたとはいえ、その生命や財産という基本的な権利を保障していたという点は、注目に値しよう。

 このイスラム的寛容の精神は、中世インドのイスラム教徒、特にスーフィー達によって継承され、アクバルやダーラーの融和思想、さらに寛容の政治に結晶してゆくのである。  

 インド・スーフィーの融合思想  

 「神人合一」を説くスーフィズムの存在は、一神教的な教条主義的傾向を緩和し、他宗教との共存を教義的にも可能となし、他宗教地域へのイスラムの伝播に大きな貢献をしたことでも知られている。(19)特に、インドへのイスラムの伝播と定着には、スーフィーの存在が大きかったことは、よく知られた事実である。(20)

 本書小論において、インド・スーフィー思想について詳細な検討をすることはできないが、インド・スーフィーの思想傾向を決定付けた思想家とされるファリドウッディーン(Faridu’d-di’n:1176~1265)の思想について簡単に紹介し、アクバルやダーラーの思想理解の補助線としたい。

 ファリドは、インド・スーフィーの2大潮流の一つであるチィシュチィー派に属する神秘主義者である。彼はアフガンからの移住者の子としてインドで生まれ、インド的な環境をもって、その思想形成を行った最初期の世代である。従って、彼の思想には、イスラム的であると同時にヴェーダンタ的な思想が見出せる。その一例を示すならば、

 花嫁は、花婿が居なければ心の平安は得られない(丁度その様に人間は、神の愛無くしては、心の平安:魂の救済は得られない)。神が慈悲(khmul)をたれる時、私は神と一つとなる。

 また、連合いもなく、友もいない女が寂しさにもがくように(神の愛を持たないものに心の平安:魂の救済はない)。私は神の愛により、神と一体となる。救いの道は狭く、私の踏む道は刀の切っ先のようである。それが我々の救いの道である(だから、神の愛にすがりなさい)。(シク教の聖典『グラント・サーヒブ』1352ページより)

となる。

 この一文でも明らかのように、ファリドの教えは、神人合一による現象世界の差異の超越が、その前提となっている。彼にとって重要なことは、神との合一による救済ということであり、それは神への愛によって獲得されるとする。ファリドは、

 神への愛を持つものが、真の人間である。

 真心が少なく、口先ばかりのものは、神によってその罪が記録される(地獄行きを意味する)。

 (神への愛によって)神の愛を頂く者は、光を得、神をないがしろにするものは、地上において重荷を負う。(同1451)

とこの点を表現している。

 そして、

 正しいことを言い、正しいことを行いなさい。

 人は永遠の命を持つことはできないのだから(人は必ず死後に神の審判を受けねばならない。)その時には、6ヶ月かってできた身体も、一瞬にして無となる。(中略)

 あるものは荼毘に付され(ヒンドゥー教徒のこと)、あるものは墓の中に行く(イスラム教徒のこと)。しかし、彼らの魂は生前の行いによって裁きを受ける。(同1354)

として、ヒンドゥー・イスラムの形態的な差異を超えて、本質的な一致を前提とする思想を展開する。この一文からは、神への絶対的帰依、あるいは神人合一への希求の前には、宗教の差異は問題にならないというインド的にいえばヴェーダンタ思想、イスラム的に言えばスーフィズムの思想が展開されている。この思想は、多数のインド・イスラムに受け入れら、一つの伝統となっている。(21)

 この伝統を継ぐものが、15~16世紀に活躍したカビール(1425~1492頃)とナーナク(1469~1538)等である。

 カビールもナーナクも共にインド中世における神秘主義思想家の代表的な存在であり、同時に彼等は民衆思想家として教義にとらわれない、自由な思想を展開した。特に、ナーナクの教えは、後代ヒンドゥー・イスラムの融合宗教と評されるシク教に発展し、今日に至っている。(22)

 カビールやナーナクに代表される神秘主義思想家を、ヒンドゥー教的にはバクタ(神に神愛を捧げる者)と言い、イスラム的にはスーフィーと呼ぶ。そして、カビールもナーナクも、双方から聖者として崇められていたという意味で、インド中世における宗教的な雰囲気を象徴する存在である。つまり、カビールもナーナクも教条的な宗教理解に反対し、真の神への信仰には、ヒンドゥー教やイスラム教という差異は存在しない、と説くのである。この点をカビールは

 カビールは言う。ラーム(ヒンドゥー教の神)と唱えることには不思議な力がある。その中には神の救いがある。(カビールが使う)同じラームと言う言葉を、人々は(ダシャラットの子ラーマの呼称として使い、(カビールは)唯一なる神のために使う。カビールはいう、私は偏在する貴方のみをラームと呼ぶ。われわれはこの言葉の差を知らなければならない。

 唯一の神ラームは、全ての中におわし、一なる神から流出したもの(ヒンドゥー教でいうラーム)は、唯一なる神の一部(化身)である。唯一なる神はどこにでもおわす。しかし、唯一のラームは一つである。(同1374p)

と表現する。

 カビールがイスラム教徒であることを考えれば、彼が如何にイスラムの教条的な考えから離れていたかは、明確であろう。しかも、このような大胆な主張が、イスラム教徒としてなされ、それをヒンドゥー教徒のみならず、イスラム教徒が受け入れていたと言うことは、イスラム教の可能性を考える上で大きな可能性を示唆するものであろう。  

 アクバルの融合思想  

 カビールやナーナクから遅れること数十年にして、ムガル王朝第3代の皇帝アクバルは、独自のヒンドゥー・イスラム融合思想を展開し、またそれを現実の世界、つまり政治・社会政策として展開した。

 本小論では、この点に関して詳しい検討はできないが、アクバルとダーラーの思想を簡単に紹介する。

 記述のように、インドには宗教的差異を超える神秘主義思想の伝統が、その底流に存在し、その伝統はイスラム教徒の世界においても、無理なく受け入れられたのである。そして、自らもスーフィーとして宗教的な体験を持っていたアクバル帝は、その宗教思潮を積極的に宗教的にも、また政治的、文化的にも展開した。その結果、ヒンドゥー・イスラム融合文明と言いえるような諸宗教・文化融合がアクバルからダーラーまでの約百年間、インド・イスラム世界にイスラム文明を中心として、ヒンドゥー・キリスト・ユダヤ・パールシー(イラン)の文化を融合する宮廷文化が花開いた。(23)

 特に、アクバル帝は1579年イスラム至上主義者への反省を込めて、諸宗教融合を旗印としたディーニ=イラーヒー(Di’n Ila’hi’:神聖宗教)を始めた。これは1575年以来続いていた信仰の家(Iba’datkha’na:信仰の家)における諸宗教の対論を通じてのアクバル帝がたどり着いた結論であった。(24)

 この「信仰の家」においては、「この神聖なる場所は、霊性の構築のために供され、この地に神聖なる智の柱が高々と出現した。」(『アクバルナーマ』第3巻252p)と表現され、この場には、スーフィーとしてのアクバル帝を中心に

彼の寛容さと神の影を明らめる(帝の)寛容さによって、ここにはスーフィー、哲学者、法学者、法律家、スンニー、シーア、(ヒンドゥーの)バラモン、ジャイナ教徒、チャールバーカ、キリスト教、ユダヤ教、サービー、ゾロアスター教徒などが、この厳な集りにおいて一同に会して議論を行った。(同253ページ)

と、言うことであった。

 このアクバル帝の諸宗教の融合については、さまざまな批判もなされている。(24)しかし、彼の融合思想が単なる思い付きや政治的なテクニックによって導き出されたものでないことは、その思想を受け継いだ孫のダーラーの思想活動によっても確かに知ることができる。  

 ダーラーの融合思想

 ダーラーの思想については、日本においては、アクバル帝のそれ以上に知られるところが少ない。(25)しかし、彼の業績は偉大であり、比較文明学からの研究が本格的になされるべきである。例えば、彼がサンスクリット語からペルシア語に翻訳させたウパニシャッド文献、これは一般に『ウプネカット(Oupnek’hat)』は、後にラテン語訳されてヨーロッパの知識人に大きな影響を与えたことは、よく知られたことである。

 こうしたヒンドゥー教における諸聖典の翻訳事業は、彼がスーフィーとして自らも神秘主義思想を極め、またヒンドゥー教の聖者バーバー・ラールの感化を受けてある意味でバクタとしての立場から、ヒンドゥー・イスラム両教の融合を思想的に試みたのが、彼の代表作である『二つの海の交わるところ(Majma’ al-Bah’rayn)』である。

 ダーラー自身が書いた本書の前文には、この経緯を、

(彼、ダーラーは)真実の中の真実を覚り、スーフィーの真の宗旨(教えの根本)の素晴らしさに目覚め、偉大なる深遠なるスーフィーの英知を悟った後には、彼(ダーラー)はインドの(存在の)一元論者達(movahhedan)の教義を知ることを強く願った。彼(ダーラー)は学者達と交流し、インドの宗教における神の聖性について議論を繰り返した。彼等インドの学者は、宗教的な訓練と知性と洞察において最高に完成された境地に到達したもの達である。そして、彼(ダーラー)は、彼等(インドの宗教者)が捜し求め、獲得した真実について、言葉以外には、その違いを見出すことができなかった。その結果、2つの宗教(集団)の考えを集め、諸テーマを集め。真実を求める人に基本的で、有益な知識を供給する一冊子とし、これを名づけて『二つの海の交わるところ(Maja’ al-Bahrayn)』とした。(26)

と、ダーラーは記述している。

 この書物は、いわゆる「存在の一元性論」に立つスーフィー思想と同じく「一元的存在論」を展開するヴェーダンタ思想に共通性を見出し、これを基礎として、「この世界が神の顕現であり、人間は神の本質のミクロコスムである」(27)というウパニシャッド的な世界観に強い共感を示すのである。その上さらに、彼等は調息や聖音などの思念を説き、生前解脱さえ認めるのである。

 これらのことを通じてダーラーは、イスラム教とヒンドゥー教との共存が、社会的、文化的はおろか宗教的にも可能である、と言う考えに至るのである。このとこは、イスラムの寛容性を最大限引き出したインド・スーフィーの知的営みの極致と言うことができよう。そして更に、このような寛容の精神をイスラム神学においても築き上げることが可能であることを示す優れた歴史的な事実である。

 まとめ

このように、ダーラーはイスラム教徒でありながら、ヒンドゥー教への深い共感と理解を、自らの神秘体験をもとに、スーフィーの立場から確立していった。つまり、イスラムの精神や信仰を捨てずとも、教条的なイスラムから見て多神教であり、偶像崇拝者として忌避されるヒンドゥー教との共存も更には、その融合も可能である、とダーラーはみなしたのである。

 勿論、ダーラーのこの運動は、ハラージュ以来のスーフィー達が試みてきたイスラムの寛容性の言わば、極致点であった。しかし、彼のこの方向性は、肉弟であるアウラガジーブ帝(1628~1658)との帝位継承戦争に敗れたことで、彼の命と共にムガル宮廷から消えうせたのである。

 しかし、インドにおいて展開された寛容なるイスラムの精神は決して消えることはなく今日に至っている。そして、名も無いスーフィーやアクバル帝、あるいはダーラーが見出した寛容なるイスラムのの可能性は、21世紀の親類に大きな歴史的な希望を与えてくれるのではないだろうか。

 以上、インドにおいて展開された寛容なるイスラム精神の可能性が、21世紀のイスラム精神となるように、非イスラムの我々も彼等イスラム教徒と共に、努力すべきであろう。

(1)イラン革命(1979)において、アメリカ大使館が占領され大使館員が人質となり、長い間拘束されたことは、西側諸国に大きな衝撃を与えた。詳しくは鳥井順『イラン・イラク戦争』第三書館1990などを参照。
(2)イスラムの復興運動については、拙論「」『宗教と法』北樹出版、1995において論じた。また参考文献についても提示しておいた。
(3)イスラム教徒の人口の増加についてインド事例を紹介すると以下のようになる。つまり、1901年イギリスが実施したインド(英領インド)における国勢調査によれば、その総人口は2.94億人であり、その内ヒンドゥー教徒は70.4パーセント、ムスリムは21,1パーセントであった。ところが、最新の統計では、インド共和国における人口はほぼ10億人(1999)そのうち80パーセントがヒンドゥー教徒、イスラム教徒は11パーセントである。さらにパキスタンでは1、35億人であり、ムスリムの比率は97パーセント   である。さらに、バングラデシュにおいては1.27億人、イスラム教徒の比率は88パーセントとなり、同地域のイスラム人口は、合計約3億6千万人となり、そのパーセンテージは約28.6パーセントとなり、100年で7.5ポイントの伸びであり、明らかにムスリムの人口増加率が大きいことを示している。
(4)H.ギブ(加賀屋寛ほか訳)『イスラーム文明史』みすず書房、1968.等を皮切りに沢山のイスラム文明を再評価する書物が出版されている。詳しい文献は割愛するが『現代思想〜特集=イスラム』1980年2号(vol.8-2)に掲載された伊東俊太郎博士他の論説参照。加藤博『文明としてのイスラム』東京大学出版会、1995参照。
(5)中村元『ウパニシャッドの思想』春秋社、1990年参照。
(6)前田専学ほか『インド思想史』東京大学出版会、1990、15〜16ページ。
(7)同23ページ。
(8)詳しくは中村元『原始仏教の思想』中村元著作集(15・16巻)関連項目参照。
 平河彰『法と縁起』平川彰著作集 春秋社関連項目を参照。
(9)仏教やヒンドゥー教は多神論で、偶像崇拝と一般には規定されるが、これは改められるべき認識であろう。少なくとも近代科学の一員たらんとした宗教学の抱える問題であろう。
(10)インドのスーフィズムにおける融合思想の研究は、S.A.Rizvi”A History of Sufism in India”(2vols.)Dehli 1978~83.を参照。
(11)インド思想や仏教思想においては、他宗教や思想の排除ではなく、融合が体系的に行われた。その典型は15世紀に書かれた『全哲学綱要』等(『中村元選集』(第28.29巻に翻訳がある)である。
  また、シク教のナーナク(1469〜1538)の「ヒンドゥー・イスラム融合思想」などもこれにあたる。また、近代においても諸宗教の融合やこの思想に近い比較宗教研究が盛んでありインド独立運動に貢献したティラク(1856〜1920)は、大著『ギーターラハスヤ』を表しているし、その他多くの哲学者が比較宗教、比較哲学、比較宗教学の分野において大きな貢献をしている。詳しくは中村元『比較思想軌跡』東京書籍、1993参照。
 尚、仏教世界において展開された教判の思想も、基本的には諸思想・宗教の融合思想の現れである。その象徴的な存在は空海の『十住心論』である。
(12)例えば、黒田寿郎『イスラームの心』中公文庫、昭和59年。ここでは「異教徒といえども、一定の人頭税を払えば、徴兵その他の義務を免除され、広範な自由が保証された・・・。」(67ページ)とある。但し、仏教では異教徒であるという理由で税金を払わせるということはなかった。
(13)『コーラン』2−192,199,218,225,235、など多数
(14)インドのイスラムは、中東地域や東南アジア地域と異なり、イスラムは基本的には少数派である。その意味で、インドはイスラム化の途中であり、イスラム地域や、イスラムの優勢地域と異なり、常に異教徒との緊張関係が要求されている。その意味で、全地球的規模で展開されるイスラムとの関わりかたを、インドを先行事例と位置付けることができるであろう、と筆者は考えている。
(15)この件に関しては拙論「」『麗澤学際ジャーナル』1の1参照。なお、原点はペルシア語で”FATHNAMAH-I SIND” 通称 Chachnama”である。8世紀頃の資料をもととして13世紀に書かれた本書は、校定本A.Kufi”Chacha “ Delhi 1939がある。
(16)10世紀末頃から始まったトルコ系イスラム教徒のインド侵略は非常に過酷であり、殺戮と略奪の限りを尽くしたとされる。この時代の代表者はマフムード(967~1030)であり、さらに14世紀にはモンゴル系を自称するティムール(1336~1405)侵略などが名高い。
(17)A.Kufi”Chacha “ Delhi 1939.pp.117~118..
(18)ibd.218.p.
(19)スーフィズムの成立には諸説あるが、インド思想の影響、特に仏教やヴェーダンタの思想的な影響が大きかったといわれる。と訓、スーフィズムにおける最初期のアル=ハラージュ(857~922)の存在は特記される。L.Massignon”The Passion of al-Halla’j”(4vols)Princeton unv. Press.1982.スーフィズム一般については、A.al-Kalabadhi(tr.A.Arberry)”The Doctrine of The Sufis”Cambridge unv.press.1935比較的最近の入門書としては、I.Shah”The Sufus”New York.1990.等を参照。
(20)スーフィーに関して詳しくは、拙論「インド・スーフィーの思想と社会背景」  『インド中世思想研究』春秋社、1992の注を参照。
(21)詳しくは拙論「インドスーフィーに見られるイスラーム融合思想の比較思想的研究」『比較思想研究』17号、比較思想学会、1990、46~53ページ。
(22)シク教については拙著『シク教の教えと文化』平河出版社、1992参照。
(23)アクバルが建設した都市であるファティプール・シークリーには、諸宗教・文明の融合を象徴する建設物が多数残っている。また、彼の墓地であるスカンドーラの廟の建物は、その全体がヒンドゥー・キリスト・ペルシア・イスラムの融合を象徴するものとなっている。
(24)アクバルに関する評価は、一定していない。石田保昭『ムガル帝国』吉川弘文館、昭和40年参照。なお、アクバル研究の基本文献はAbu’l-Fazl “Akbar nama”である。
(25)ダーラーの研究は、榊和良「二つの海の交わるところ」『東方学』第九十八、東方学会、1998、106〜120ページ参照。
(26)Dala shukoh”Majma’ al-bahrayn”Bengal R.A.C. 1926,pp.80.
(27)前出榊論文117ページ。


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