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 No.102 「忠恕」について


2010年2月1日 Category : NEWS  現代の倫理道徳


【問 い】
 儒教では「忠恕(ちゅうじょ)」ということが重視されていますが、それはどういう意味なのでしょうか。[2010年2月]

【答 え】 

「忠恕」は広辞苑によれば「まごころとおもいやりとがあること。忠実で同情心が厚いこと」とあります。「忠」は「まごころ」、「恕」は「おもいやり」と分類することができます。では「まごころ」とは何か、「おもいやり」とは何か、とその答えを探るには「忠恕」という言葉について中国の古典でどのように語られ解釈されてきたのかを見る必要があります。

「忠恕」は『論語』や『中庸』に出てくる言葉です。

ある時、孔子が弟子の曾子(そうし)に「参(しん、曾子のなまえ)よ、私の道は一つのもので貫かれているのだよ」とおっしゃった。曾子はそれに対して、ただ「はい」とのみ答えた。そのやりとりの意味が分からなかった門人達が曾子に質問すると、曾子は「夫子〈孔子のこと〉の道は『忠恕』のみ」と答えた。(『論語』里仁篇)

ここで「忠恕」は、孔子の「道」全体に一貫するという極めて大切なこととして提示されています。そのため「夫子の道は忠恕のみ」という一節は、儒教の長い歴史を通じて多くの人々の間で盛んに取りあげられた重要なテーマでした。

三世紀の王弼(おうひつ)は「忠は、情の尽なり。恕は情に反(かえ)りて以って物を同じうするものなり」と注釈し、「忠」は自分の気持ち(情)を尽くすことであり、「恕」は自分の気持ちを振り返り、他者―ここでいう「物」とは主として自分以外の他者を指す―の気持ちを自分の気持ちと同一視すること、と説明しています。

十二世紀に朱子(朱熹、しゅき)が著わした『論語集注』(ろんごしっちゅう)では「己を尽くすをこれ忠と謂(い)い、己を推すをこれ恕と謂う」とあります。また『中庸』の注釈書でも「己の心を尽くすを忠となす。己を推して人に及ぶを恕となす」と解説しています。

他にもたくさんの注釈がありますが、よく読まれた注釈書を概略してみると、「忠」とは自分の気持ちや心を尽くす「まごころ」であり、「恕」は自分の心を他者に推して「思いやる」こと、とまとめることができます。ここで「忠」に与えられた「気持ちを尽くす」「心を尽くす」という表現から、むしろそれは「思いやり」(恕)ではないかと感じる方がいるかもしれませんが、現在我々が慣用句として用いる「心を尽くす」(広辞苑では「まごころをこめて一所懸命にする」とある)という言葉とは、多少ズレがあります。「忠」を注釈した「心を尽くす」には、他者へのまなざし以上に自己の心の内面へと向かう意識が強く内包されているためです。

例えば『礼記』では「祀(まつり)の忠」ということが語られています。親の葬儀において、亡き親に対して生きている時と同じく待遇し、亡き親を思うと悲しさのあまり自分も一緒に死んでしまいたいと思い、忌日が来るごとに必ず哀しみに覆われ、祭祀の中で親の名前(諱、いみな)が呼ばれるだけでも、まるで親自身に面会しているごとくに感じる、これが「祀の忠」である(『礼記』祭義)というのです。

これは、大切な人を失った時の悲しみの、その全く偽りなく自然に哀しむ自己の内心のありさまやあらわれを「忠」と表現しているわけですが、このように「忠」という言葉には、第一に、自己の心の偽りのなさ、自分の気持ちの純粋性という意味合いがあります。第二には、自分が「こうあるべきだ」「こうありたい」と思うことに対して、この哀しみと同様の偽りのなさ、純粋性を獲得することが「己の心を尽くす」という表現に込められています。具体的に言えば、それは自己の心の反省になります。例えば『論語』学而篇に、曾子が毎日自己反省する3つの事柄の第一番目に「他人のためと思って行なったことが、『忠』であったかどうか」が挙げられています。また『孟子』には次のような話があります。

自分に対してひどいことをする人がいたら、君子は必ず自己反省し、「私がきっと仁でなかったのだ、きっと礼を欠いていたのだ」と振り返る。このようにして自己の行為が仁と礼とに合致していることを確認した上で、なお相手が自分にひどいことをするようであれば、君子はそこで必ず再度自己反省して「私がきっと『忠』でなかったのだ」と振り返る。自己の内心が偽りなく純粋であることを再確認してみても、なお相手の自分に対するふるまいが改まらなければ、そこでようやく相手が取るに足らない人物であると判断する。(『孟子』離婁下)

このように、「忠」は、自己の心の偽りのなさと、自己反省という心の内側へのまなざしを中心的な意味としていますので、「心を尽くす」という表現も、自己の心のあり方を見つめることを指しているのです。

さて、冒頭に引いた『論語』のこの一節「夫子の道は忠恕のみ」以外では、『中庸』の「忠恕は道を違(さ)ること遠からず。これを己に施して願わざれば、また人に施すことなかれ」という孔子の言葉が参考になります。その意味は、「忠恕」であれば「道」からそれほどはずれてはいない、自分が他人からされたくないことは他人にしてはならない、ということです。「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」(『論語』衛霊公篇)という有名な孔子の言葉もありますが、これらは「恕」について述べられたものです。「己を推して人に及ぼす」(朱子)「思いやり」(広辞苑)である「恕」とは、「自分が望まないことは自分のほうからも他人に対して行わない」という、具体的な行動指針をベースに示されているのです。『中庸』では続けて君子の道の四つの大事なポイントを挙げます。一つめは、自分が親として子供にこうしてほしいと望んでいることを、自分は子として親に対してできているか。二つめは君臣関係において、三つめは兄弟関係において、四つめは友人関係において、それぞれ自分がこうしてほしいと思うことを、自分は率先して相手にしてあげているのか、と反省を促しています。この4点は自分もまだできていないのだ、と孔子は語るのです。

我々は多様な人間関係の中で相手に対して不満を抱いたり、社会に対しても不満を抱いたりすることがありますが、果たして自分が不満に思ったり、または相手に望んだりしていることを自分は他人や社会に対して行なっているのか。「恕」を注釈した「己の心を推して人に及ぶ」とは、まさにこのことを述べているのです。

このように、これらの古典中にあらわされている思いやり(恕)は、基本的には自他の心の同質性に基づいて思考されています。一方で、思いやりとは自己の理解を超えた他者の異質性を尊重することではないか、という考え方もあるかと思います(例えば、江戸時代の思想家・伊藤仁齋がこの点を指摘しています)が、古典の中の用例は自他の心の本来的同質性に重点を置いており、他者の異質性を心そのものの異質性としてではなく、置かれた状況や立場、ひいては文化背景の個別性として捉えていると言えます。

さて、『中庸』の続く一節では更に、君子たるものは自分の発した言葉は自分の行動と合致しているか常に反省し、自分の取った行動が自分の発する言葉と合致しているかを常に振り返ることを述べ、この第十三章を締めくくっています。我々は往々にして口先や見せかけだけで心が伴わなかったり、内心は「こうありたい」「こうあるべきだ」と感じても、ちょっとした誘惑のために「今はまあいいや、次からはそうしよう」と言動が伴わなかったりすることがありますが、それらを戒める言葉で締めくくるわけです。この自分の言葉と行為との合致を心に省みることは、「自分の心を尽くす」(忠)ことでもありますので、ここに「忠」と「恕」の密接な関連性を見いだすことができます。

孔子の道を貫く一つのものとしての「忠恕」とは、自己の心の偽りのなさ・真実性を内面に向かって見つめ反省する「忠」と、その心を推して外面(他者)へと及ぼそうとする「恕」の二つの方向性を有するもので、この言葉の背後にはここまで少しばかり見てきた様々な具体的な示唆が含まれているのです。

【参考文献】

薗部英一編『新天皇家の自画像―記者会見全記録―』、1989年、文春文庫 穂積重遠『新訳論語』、1981年、講談社学術文庫 宇野哲人『論語新釈』、1980年、講談社学術文庫 加地伸行『論語』、2004年、講談社学術文庫 島田虔次『新訂中国古典選 大学・中庸』、1967年、朝日新聞社

(文責 人間学研究室 宮下 和大)




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